単純に北欧型のいわゆる「福祉国家」はグローバル化の進行で成立が難しい。政府の役割は小さくならざるを得ないだろうから。その分社会の役割を大きくする必要がある。個人とその家族、家族を育む地域社会などの役割、近代化の過程で縮小してきたこれらの小集団から大集団まで、その「包摂性の回復」ができるかどうかに日本人の「しあわせ」が掛かっている、と思う。
明治維新以来の日本社会は、加藤周一さんのことばを借りれば、非人格化、非個人化、非人間化の道をひた走ってきた。その失ったものの大きさに今の日本社会は慄いている。
これを解決する手段として、国家像の転換を迫られている。マルクス主義理論の用語を使えば、開発独裁国家から近代民主国家へということになる。社会学者の宮台真司さんの言い方を借りれば「お任せする政治」から「引き受ける政治」へ、つまり「市民社会」へということである。民主党の言い方では、官僚主導から政治主導へ、中央集権国家から地域主権国家へ。
国家も企業も社会の一集団でしかない。役割は限定的だと考える。むしろ社会の役割の大きさ、それは我々「市民」の役割の大きさを意味するが、を考える。それは冒頭の大きな国家像としての「福祉国家」とはかなり違ったものになるだろう。これをヨーロッパの政治理論では「第三の道」といったりする。またすべてをお任せする企業一辺倒の生活からの決別でもある。
個人と家族と地域社会の再興、これが我々のこれからの目標にならなくてはならない。目的は我々一人ひとりの「しあわせ」である。