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2010-08-12

夕立 永井荷風作

東京の西郊、武蔵野の面影がいまだに残っていた子供の頃、夏の午後には必ずといっていいほど夕立となった。黒雲が天を覆いたちまち驟雨となり、稲光がした途端に雷鳴が鳴り響いた。蚊帳をつって避難したのを今のことのように想い出す。ひとしきり嵐が過ぎ去ると一転雲間から夏の光が照りつけ、東の空に大きな虹がかかった。近くの田野に出て雨後の湿った土や草花の露に濡れながら虹を眺めたものだった。黒澤明監督「夢」の第一話「日照り雨」が印象深い。雨の滴る森の中、霧の中から狐の嫁入りの行列が現れる場面の妖しい雰囲気に魅せられた。荷風先生の「夕立」は短い小品だけれども、豊かな古今東西の薀蓄を披露しながら大久保余丁町の庭の情景で終わる構成は緻密に計算された逸品である。「夕立もまた東都名物の一つなり」と威勢よく書き出される。


夕立 永井荷風


 白魚しらうお、都鳥、火事、喧嘩、さては富士筑波つくばの眺めとともに夕立もまた東都名物のひとつなり。
 浮世絵に夕立を描けるものはなはだ多し。いずれも市井しせいの特色を描出えがきいだして興趣津々しん/\たるが中に鍬形※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)くわがたけいさいが祭礼の図に、若衆わかいしゅ大勢たいぜい夕立にあいて花車だしを路頭に捨て見物の男女もろともに狼狽疾走するさまを描きたるもの、余の見し驟雨の図中その冠たるものなり。これにぐものは国芳くによし御厩川岸おんまやがし雨中の景なるべし。
 狂言稗史はいしの作者しばしば男女奇縁を結ぶの仲立に夕立を降らしむ。清元浄瑠璃きよもとじょうるりの文句にまた一しきり降る雨に仲を結ぶの神鳴かみなりや互にいだき大川の深き契ぞかわしけるとは、その名も夕立と皆人の知るところ。常磐津ときわづ浄瑠璃に二代目治助が作とやら鉢の木を夕立の雨やどりにもじりたるものありと知れどいまだその曲をきく折なきをうらみとせり。
 一歳ひととせ浅草代地河岸だいちがし仮住居かりずまいせし頃の事なり。築地より電車に乗り茅場町かやばちょうへ来かかる折から赫々たる炎天俄にかきくもるよと見る間もなく夕立襲い来りぬ。人形町にんぎょうちょうを過ぎやがて両国にきたれば大川おおかわおもて望湖楼下ぼうころうかにあらねどみず天の如し。いつもの日和下駄ひよりげた覆きしかど傘持たねば歩みて柳橋やなぎばし渡行わたりゆかんすべもなきまま電車の中に腰をかけての雨宿り。浅草橋もあとになし須田町すだちょうに来掛る程に雷光すさまじく街上に閃きて雷鳴止まず雨には風もくわわりて乾坤けんこんいよいよ暗澹たりしが九段を上り半蔵門に至るに及んで空初めて晴る。虹中天に懸り宮溝きゅうこう垂楊すいよう油よりも碧し。住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり。
 巴里パリーにては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬さいばおもむく時、驟雨濺来そそぎきたって紅囲粉陣更に一段の雑沓を来すさま、巧にゾラが小説ナナの篇中に写し出されたりと記憶す。
 紐育ニューヨークにては稀に夕立ふることあり。盛夏の一夕いっせきわれハドソン河上の緑蔭を歩みし時驟雨を渡頭ととうの船に避けしことあり。
 漢土かんどには白雨を詠じたる詩にして人口に膾炙するもの東坡とうばが望湖楼酔書を始めとう※(「にんべん+屋」、第4水準2-1-66)かんあく夏夜雨かやのあめしん呉錫麒ごしゃくき澄懐園消夏襍詩ちょうかいゑんしょうかざっしなぞそのるいすくなからず。彼我風土の光景互に相似たるを知るに足る。
 わが断腸亭奴僕ぬぼく次第に去り園丁来る事また稀なれば、庭樹いたずらに繁茂して軒を蔽い苔はきざはしを埋め草はかきを没す。年々鳥雀ちょうじゃく昆虫の多くなり行くこと気味わるきばかりなり。夕立おそいきたる時窓によって眺むれば、日頃は人をも恐れぬ小禽ことりの樹間に逃惑うさまいと興あり。巣立して間もなき子雀蝉とともに家のうちに迷入ること珍らしからず。是れ無聊を慰むる一快事たり。



歌川国芳 東都御厩川岸之図




2010-08-04

来青花 永井荷風作

「来青花」という荷風先生の文章がある。先生の父君が残した大久保余丁町の家の庭に馥郁たる香りを放つ樹木があった。父君は漢詩をよくし中国の文物を愛でた。中国からさまざまな植物を自分の庭に移し植えた。その一つがこの「来青花」と先生が名付けた樹木。たぶんオガタマらしいが不明。これを先生は生前対立した父君と重ね合わせて懐かしむ。漢文調独特のリズムと対象との距離感が絶妙。小品ながら珠玉の逸品。





来青花らいせいか


 ふぢ山吹やまぶきの花早くも散りて、新樹のかげ忽ち小暗をぐらく、さかり久しき躑躅つゝじの花の色も稍うつろひ行く時、松のみどりの長くのびて、金色こんじきの花粉風きたれば烟の如く飛びまがふ。月正に五月に入つて旬日を経たる頃なり。もし花卉くわきを愛する人のたま/\わが廃宅に訪来とひきたることあらんか、蝶影てふえい片々たる閑庭異様なる花香くわかうの脉々として漂へるを知るべし。而して其香気は梅花梨花の高淡なるにあらず、丁香ていかう薔薇しやうびの清凉なるにもあらず、将又はたまた百合の香の重く悩ましきにも似ざれば、人或はこれを以て隣家のくりやに林檎を焼き蜂蜜を煮詰むる匂の漏来もれきたるものとなすべし。此れ便すなはち先考来青らいせい山人往年滬上こじやうより携へ帰られし江南の一奇花きくわ、わが初夏の清風に乗じて盛に甘味かんみを帯びたる香気を放てるなり。初め鉢植にてありしを地にくだしてより俄に繁茂し、二十年の今日既に来青らいせいかく檐辺えんぺんに達して秋暑の夕よく斜陽の窓を射るを遮るに至れり。常磐木ときはぎにてその葉は黐木もちに似たり。園丁これをオガタマの木と呼べどもわれいまだオガタマなるものを知らねば、一日いちにち座右ざうにありしはぎ先生が辞典を見しに古今集三木さんぼくの一古語にして実物不詳とあり。れば園丁の云ふところ亦にはかに信ずるに足らず。余しば/\先考の詩稿を反復すれども詠吟いまだ一首としてこの花に及べるものを見ず。母に問ふといへどもまた其の名を知るによしなし。こゝに於てわれみづから名づくるに来青花らいせいかの三字を以てしたり。五月薫風簾をうごかし、門外しきりに苗売の声も長閑のどかによび行くあり。満庭の樹影青苔せいたいの上によこたはりて清夏の逸興にはかきたるを覚ゆる時、われ年々来青花のほとりに先考所蔵の唐本たうほんを曝して誦読日の傾くを忘る。来青花そのおほいさ桃花の如く六瓣にして、其の色はくわうならずはくならず恰も琢磨したる象牙の如し。しかして花瓣の肉はなはだ厚く、ほのかに臙脂の隈取くまどりをなせるは正に佳人の爪紅つまべにを施したるに譬ふべし。花心くわしんだいにして七菊花の形をなし、臙脂の色濃く紫にまがふ。一花いつくわ落つれば、一花開き、五月を過ぎて六月霖雨りんうこうに入り花始めて尽く。われ此の花に相対して馥郁たる其の香風かうふううちに坐するや、秦淮しんわい秣陵まつりよう詩歌しいかおのづから胸中に浮来うかびきたるを覚ゆ。今こゝろみに菩提樹の花を見てよく北欧の牧野田家ぼくやでんかの光景を想像し、橄欖樹の花に南欧海岸の風光を思ひ、リラの花香くわかう巴里パリー庭園の美を眼前に彷彿たらしむることを得べしとせんか。月の萩と芒の影おのづから墨絵の模様を地に描けるを見ば、誰かわが詩歌俗曲の洒脱なる風致に思到らざらんや。われ茉莉まつり素馨そけいの花と而してこの来青花に対すればかならず先考日夜愛読せし所の中華の詩歌楽府がくふ艶史のたぐひを想起せずんばあらざるなり。先考の深く中華の文物を憬慕けいぼせらるゝや、南船北馬その遊跡十八省にあまねくして猶足れりとせず、遥に異郷の花木を携帰たづさへかへりてこれを故園に移し植ゑ、悠々として余生を楽しみたまひき。物一度ひとたび愛すれば正に進んでかくの如くならざる可からず。三昧のきやうに入るといふもの即ちこれなり。われ省みてわが疎懶そらんの性遂にこゝに至ること能はざるを愧づ。


カラタネオガタマ

2010-06-02

共感ということ

荷風先生に「十六七のころ」という小文がある。書き出しはこうである。「十六七のころ、わたしは病のために一時学業を廃したことがある。若しこの事がなかったなら、わたしは今日のやうに、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたかもしれない」。

この文章の末尾近くで、鴎外先生の「私が十四五歳の時」という文章を引用している。すなわち、「過去の生活は食ってしまった飯のようなものである。飯が消化せられて生きた汁になって、それから先の生活の土台になるとおりに、過去の生活は現在の生活の本になっている。又これから先の、未来の生活の本になるだろう。しかし生活しているものは、殊に体が丈夫で生活しているものは、誰でも食ってしまった飯の事を考えている余裕はない」と。

全くその通りである。しかし、その故に、私は、鴎外先生よりも、荷風先生により共感するものである。というのも、私もまた十四五歳の頃に、病を得て一時学業を廃したことがあるからである。その頃を想うとなにやら無性に切なくなることがある。確かに、過去は今の、また未来の本となっていると感じる。その意味で鴎外先生は全く正しい。

2010-04-13

すみだ川 東海林太郎

「戦後、東海林太郎の大ファンで何度もかじりつくように歌も台詞もすべて覚えたという島倉千代子の手でリバイバル。昭和42年に東海林との共唱、それからさらに精進を重ね、昭和44年に満を持して単独での歌唱でレコード化。以後、老境に差し掛かっている現在まで、島倉の欠かせぬレパートリーの1曲となり、後年声が出なくなり失意のどん底にあった中でも問題なく披露できた数少ない歌がこの歌だったとも聞いています。」
なんて話を聞くと、思わず涙を禁じえない。島倉千代子、本名同じ、1938年(昭和13年)3月30日東京・北品川生まれ。72歳。
今、昭和46年7月22日放送「なつかしの歌声」で東海林太郎(当時73歳)と島倉千代子(当時33歳)がフルバージョンでデュエットしている動画を見ている。東海林太郎の若いこと!感無量。




田中絹代が台詞をやっている。

荷風さんに逢う

永井荷風の小説「すみだ川」に題材をとった同名の「すみだ川」という歌がある。もともとは、昭和十二年(1937)に、ポリドールのドル箱歌手だった東海林太郎の専属3周年を記念して作られたものだった。島倉千代子が歌うこの「すみだ川」が何といっても絶品。YouTubeには何本か違うバージョンがアップされてんだけど、昭和62年8月28日に放送された「にっぽんの歌」でのさらっとした歌唱は非の打ち所が無い。まさに珠玉の逸品。残念なのは、フルバージョンじゃなく、時間の関係か、3番が欠けていること。



すみだ川
作詞 佐藤惣之助
作曲 山田栄一
歌手 東海林太郎
台詞 田中絹代

銀杏がえしに黒襦子かけて
泣いて別れたすみだ川
思い出します観音さまの
秋の日ぐれの鐘の声

(せりふ)
あヽそてうだったわね
あなたが二十歳わたしが十七の時よ
いつも清元のお稽古から帰って来るとあなたは竹谷の渡し場で待っていてくれたわね
そして二人の姿が水にうつるのを眺めながらニッコリ笑って淋しく別れた
本当にはかない恋だったわね

娘心の仲見世歩く
春を待つ夜の歳の市
更けりゃ泣けます今戸の空に
幼馴染のお月様

(せりふ)
あれからあたしが芸者に出たものだからあなたは逢ってくれないし
いつも観音様へお詣りする度に廻り道して
なつかしい墨田のほとりを歩きながら一人で泣いていたの
でももう泣きますまい
恋しい恋しいと思っていた初恋のあなたに逢えたんですもの
今年はきっときっと嬉しい春を迎えますわ

都鳥さえ一羽じゃ飛ばぬ
むかしこいしい水の面
逢えば溶けます涙の胸に
河岸の柳も春の雪

因みに、フルヴァージョン。