荷風先生に「十六七のころ」という小文がある。書き出しはこうである。「十六七のころ、わたしは病のために一時学業を廃したことがある。若しこの事がなかったなら、わたしは今日のやうに、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたかもしれない」。
この文章の末尾近くで、鴎外先生の「私が十四五歳の時」という文章を引用している。すなわち、「過去の生活は食ってしまった飯のようなものである。飯が消化せられて生きた汁になって、それから先の生活の土台になるとおりに、過去の生活は現在の生活の本になっている。又これから先の、未来の生活の本になるだろう。しかし生活しているものは、殊に体が丈夫で生活しているものは、誰でも食ってしまった飯の事を考えている余裕はない」と。
全くその通りである。しかし、その故に、私は、鴎外先生よりも、荷風先生により共感するものである。というのも、私もまた十四五歳の頃に、病を得て一時学業を廃したことがあるからである。その頃を想うとなにやら無性に切なくなることがある。確かに、過去は今の、また未来の本となっていると感じる。その意味で鴎外先生は全く正しい。