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2010-11-12

「小野小町九相図」から考える

京都市の浄土宗安楽寺に「小野小町九相図」がある。美人の誉れ高い小野小町が死んで腐乱し、最後は土に返るさまを見事なリアルさで描いた掛け軸だ。本物は未見だが、ネットで概要を見ることができる。


「九相図」というテーマではこの他にも「檀林皇后九相観」(桂光山西福寺、京都市)や「人道不浄相図」(紫雲山聖衆来迎寺、滋賀県)」など、いくつも知れれている。だからテーマとしては一般的なものだったのであろう。

私はこういうのが好きで機会あるごとに見直すのだが、驚くべきことは、そのリアルさである。おそらく当時は、日常的に人体が腐乱していくさまが街角や川原などで観察できたのであろう。実に正確だ。

死体が黒ずみ腹が膨れ、血がにじみ出る。次に脂肪がどろどろになって流れ出す。しぼんだ死体から肋骨などの骨が外に露出してくる。犬や鳥などが肉を食い散らす。最後は骨だけになる。その骨も辺りに散乱してい原型をとどめなくなるというもの。

仏教の「無常観」をあらわして「仏教画」とされる。しかし、ここまでリアルに表現したのは、その目的をはるかに超える。なんらかの強い意志があったと想像される。それは事実を冷徹に観察して、書き留めておきたいという欲望である。その意志は直接的には仏教とはなんの関係もない。

環境を正確に把握したいという人間としての、さらに言ってしまえば、生物としての本源的な欲求ではないかと思う。江戸の絵師に「若冲」という人がいるが、この人の絵を想起する。同じような強い欲望を感じることができるから。また、写真家の藤原新也が初期のインド紀行で掲載した、ガンジスの中洲で犬が死体を食う場面を写した写真。「メメント・モリ」に収録されたその写真には、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」ということばが添えられていた。


藤原新也の「印度放浪」(朝日文庫)を書庫から引っ張り出してきた。紙の質が悪いので大分日に焼けていて、しかもかさかさと貧相な音がする。ぱらぱらめくってみる。

「人間の身体(からだ)を見ていて神々しいと思ったのは、一っぺん沈んで浮かんできた水葬体だね。水葬にしていったん沈むんだけど、沈んだあと底につかないのはそのまま浮かばないで流れる。底についたのは必ず浮かんでくるんだ。そうやって浮かんできた時の顔とか身体(からだ)というのは、不純なものがいっさい流れたような美しいものなんだね。半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある、それが二三日経つとだんだん膨らんできて、中の血管の血がバーッと表に出て、まるで不動明王や五大明王みたいに赤黒くなる。それからまた血が引いて漂白されたようになって行く。水に投げられたひとつの死体(しかばね)をずーっと見ていると、人間のもっているすべてが見えるよ。日本でも死ぬ時に、これは単なる比喩的な言いまわしだろうけどさ、死ぬときに一回苦しんだか、二回苦しんだか、三回苦しんだかで、その人の生前にもっている業みたいなものが出るということを言うじゃない。それとは違うけど、水葬死体も人間のもっている生前のことを全部見せてくれるような気がするね。」

「小野小町九相図」と同じことが書かれていることに驚く。違いは、水葬体の一瞬の間の美しさを藤原が発見していることと業に言及していること。しかし、人間のもっているものの全てが見えるような気がするという部分は、おそらく「九相図」を描いた絵師も感じたことではなかったか、と想像する。

藤原新也の書いたものをそのときどきに読んできた。初めて読んだのは「東京漂流」(1983)ではなかったか。この書には本当に衝撃を受けた。バット殺人事件現場、新興住宅地の中のその家の写真がその中にあったと思う。非人間化、管理化されていく日本というものを見せ付けられた衝撃だった。


その後に「印度放浪」(1972)へと彼の著作を遡ったような気がする。文庫化したときの1984年当時のあとがきで、次のように書いている。

「改めて気づいたことは、この本の率直さが、近代化され、管理化された日本に対するアンチテーゼとしての力を失っていないばかりか、この十年の日本の状況進化に伴って、より一層明確な視点を与えられているということであった。」

さらに四半世紀が経過した現在の日本の状況は、管理化が行き着くところまで来た感じがする。どこの政党が政府を形成しているといったレベルをはるかに超えている。全く別のフェーズに入ったと言えるかもしれない。その意味でも日本文明の将来が決まる重大な岐路が来ているのだろう。

非人間化、非個人化、管理化などと言われる。それを国民が自ら求めているようにすら見える。たとえば老後や医療を国家に託すということはそれを意味するだろう。それを拒否できるか?それとも別の手法があるのか?国家ではなく、社会が担うという考え方がある。「新しい公共」と言う概念・考え方がその一つだとされる。どうなるのだろうか。個人の管理化、非人間化をどう回避していくのか、それがはたしてできるのか?まだよく見えない。

藤原新也を改めて読む意味は大いにあるだろうと思う。


2010-03-15

ニコラ・ド・スタールまたは夏のかたみ

ド・スタールのような壁紙があってもいいと思うんです。ひとつ描いてみてくれませんか。
それが五十嵐と仕事上で交わした最後の言葉であった。
寂しすぎますよ、と私は答えた。
いや、寂しい人は寂しい絵を見て、そこに自分の心を見て癒されるんです。寂しい人が自分の心を隠すために、にぎやかな絵を飾ったりするのはだめですよ。逆に寂しくなるばっかりですから。
そうかも知れないなと思った。(藤原新也著「夏のかたみ/コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」より)

ニコラ・ド・スタールNocolas de Staël(January 5, 1914, Saint Petersburg – March 16, 1955, Antibes, French nationality, of Russian origin)という画家を上の文章で始めて知った。

ド・スタールの描く絵は明るく澄みわたっていたが、いつもその明るさの背後にはしめつけられるような寂寥感が漂っていた。そしてそれらの絵が予告していたかのように、彼は若くして自ら命を断つ。(同上)




いつの日か、ド・スタールの実物をこの眼で見てみたい。





























2009-11-02

現代日本の「奇妙な風景」(Shinya talkより)

久しぶりに藤原新也のブログを読んでいると、ある意味で現代日本を象徴する「奇妙な風景」を描いた文章に出会った。記録として引用しておく。


2009/10/08(Thu) 世界の果てのご乱交

先ごろバリ島のクタで日本女性がポリスを偽装する男にホテルから連れ出され、殺されるという事件があった。
ポリスと名乗っても警戒してついて行かない方がいいなど、現地の事情を知らないテレビのコメンテーターはチンプンカンプンなコメントを吐いていたが、私が知る限り、このバリのクタは世界でもっとも日本女性が醜態を曝している場所である。

事件に巻き込まれた件の女性はおそらくそうではないと思うが、現地には南特有の明るいチョイ悪な10代から20代のビーチボーイ、ストリートボーイが大量にたむろしていて、その子たちとの遊びを目的にクタを訪れる日本女性という構図がずいぶん前から出来上がっている。  

早い話が逆買春である。
買春と言っても為替レートの差が大きいから現地にいる間はお友達になったボーイの食事代やお小遣いの面倒はいっさい女性側が持ち、きわめて安上がりに旅行中は1人や2人のボーイを囲うことができるわけだ。当然その遊びの中には性交渉も含まれる。

これらのボーイはつき合って見ると悪気のないただのガキだが、日本に今繁殖している植物的青年とは異なり、それなりの男の魅力を発散してもいる。
彼らは一様に手帳を持っていて、その中を見てみると日本女性の名簿がずらりと並ぶ。
20人や30人は当たり前、中には100人以上の”顧客名簿”を有するつわものもいる。
マメな者は年齢までしっかり書いており、20代は非常に少なく、大体30代前半から中半の女性が圧倒的に多い。
その中に日本の年増の有名歌手の名があって驚いたのだが(本名の横に名前を記していた)まさかと思って色々と問いただしてみると、どうも非常に信憑性が高いと言えた。

名簿化するということはようするに彼女たち定期的にクタに来て遊んでいるということであり、実際「来週の何日には○○ちゃんが来る」などさまざまなローテーションを組んでいるのである。

私が泊まっていた中庭のある安宿にも数人の日本女性が単身で泊まっていて、朝っぱらからホテルのボーイが「○○ちゃーん○○○○しょうよ!」と日本語であられもない卑猥な言葉の大きな声を出して私の部屋の前を通り過ぎて行こうとしたものだから、さすがの自分も怒り心頭に達して部屋から出て行ってむなぐらを掴んだこともあった。
事後その少年に対する怒りは、こういった乱交を朝っぱらから受け入れている日本女性が無数に当地にいるという後味の悪るさに変わったものだ。

それではクタではそういったあらゆる国の30代の女性がストリートボーイたちとの乱交に勤しんでいるかというとそうではなく、他の国の女性でそういう遊びを目的に訪れているという風景は見当たらなかった。

日本女性だけがストリートボーイたちの手帳の顧客名簿に列記されるというこの特殊な情景をどのように解釈すればいいのか、いまだに解き明かしたくはない謎である。


2009/10/11(Sun) 性の問題は誤解が生じやすい

「webdice TOPICS」というサイトで先の私のバリに関するブログが以下のように報じられていると私の知り合いからメールがあった。その出だしは以下のようなものだ。

「バリ島クタでの日本女性逆買収を嘆く藤原新也」

バリ島で警官を装った男に日本人女性が連れ出されて殺害された事件があった。

写真家の藤原新也がブログで日本人女性の逆売春に苦言を呈している。



今回のブログは誤解を生じやすい。

「嘆く」「苦言」という言葉を使っているが私は嘆いているのでも苦言を呈しているのでもない。ただ風景を語っているのだ。

こういった話は道徳論として曲解されやすい。

そこに男と女がいれば愛の感情が生じたりセックスが成立したり、あるいは愛がなくともセックスが成立することもある。 

また男が女を買うことが許され、女が男が買うことが許されないというのも不均衡な話である。

私が語っているのはその男女のまぐわいの「風景」の問題なのである。

少年のむなぐらをつかんだのは私の個人的な感情の問題なのであって、道徳の押し付けではない。しかしときに道徳論より、体感による行動の方がその風景(あるいはセックス)のあり方の美醜をはっきり見極めていることもある。後味が悪い、もまた体感である。苦言でも嘆きでもない。

そしてクタの風景を謎と私は書いているが、実は私にとって謎は大方解けている。

そのことはいずれ書くかもしれない。


2009/10/29(Thu) セブン・イレブンのホームレス化についての一考察

マンションの近くに数ヶ月前に出来たセブン・イレブン。

日常的にコンビニに行かないので朝のおにぎりを買うために数週間

に行った記憶がある。

昨日久しぶりに電池を買うために入ってレジに行ってギョッとした。

レジの若い子が着ているセブン・イレブン衣装の臙脂色の仕事着の全面がまるでホームレス状態に黒光りしているのだ。

ご承知のようにコンビニというのはクリーンシンドロームを地で行く清潔と明るさの権化であり、あたかもここを基点として都市環境のクリーニング化と明度の基準が出来たかのような存在。

セブン・イレブンもまたアメリカのあの根拠なき明るさと過度の清潔の使者でもある。

そういった空間でこのホームレス着を見た瞬間の衝撃度は計り知れないものがある。

ギョッとして他の店員の服にも目を走らせると、これもまたホームレス状態である。

だがレジに向かう離人症的無感動状態の客たちはこの異常事態にまったく気づかない。

疑問があればすぐ聞く課の課長である私は若い店長にこのセブン・イレブン着ホームレス化の実態についての質問を投げる。

「かわいそうに、あのレジの子の服黒光りしてるじゃない、なぜなの?」

「あっ、はい」

店長はうろたえながら言う。

「レジの横で油もの売ってますんで、どうしても汚れてしまうんです。すみません」

「いや僕は抗議をしてるんじゃなく、なぜなのかなぁって思っただけなんだ。疑問が解ければそれでいいんだけどセブン・イレブンの本部の方では十分な着替えを用意してくれないのかな」

「あっ、それ、ないんです。こういうの全部本部の方から買わなければならないんです」

というわけでフランチャイズ制という搾取システムのひとつの帰結がホームレス着ということになるわけである。

聞くところによると、経営は非常に厳しいらしい。

子孫の生活が厳しくとも、本体の方はマージンが一律に入ってくるので店が増えれば増えるほど儲かるという仕組みなわけだが、あなたの近くのコンビニのレジの可愛い子ちゃんのお洋服は、かくなるアメリカ型搾取構造の中で犠牲になり、泣き顔になっていないか検証してみるのも一興かと思うがどうだろう。