2010-06-13

太宰治の入水

今日は、太宰治が山崎富栄と玉川上水に入水した日だった。昭和23年(1948年)6月13日。因みに、誕生日は、明治42年(1909年)6月19日。

「2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日のことであった。この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなんで、桜桃忌(おうとうき)と呼ばれ、墓のある東京都三鷹市の禅林寺には多くの愛好家が訪れる日となっている。太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事を行っていたが、生地金木には生誕を祝う祭の方がふさわしいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる平成11年(1999年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。」と、wikiにはある。

一週間発見されなかった!行きつけのバーで、椅子の上に足を乗せて、ご機嫌の太宰が想い浮かぶ(撮影/写真家・林忠彦)。





東京新聞「けさのことば」に、「太宰忌やたちまち湿る貰ひ菓子」という、櫂未知子の句が載っていた。

このコラムは歌人の岡井隆の連載で、毎朝まずこのコラムから目を通す私のお気に入り。

梅雨。蒸し暑い一日。時間は3時前後だろうか。おやつに貰いもののクッキー(断然、洋菓子だ!)を手にすると湿ている。口の中で甘くちょっと苦いクッキー、自宅だろうね、珈琲だろうか、紅茶だろうか、一人のような、まさか「愛人」とではあるまいが、笑い顔は浮かばない、薄暗い部屋の中、雨のしとしと降る音、湿気たクッキーを食べている女がいる、などと想像してしまう。

菓子と太宰の取り合わせが、似あわないこともないという、奇妙な苦さ残る。




2010-06-02

小沢一郎が『平成の悪党』になる日

佐藤優の眼光紙背(第74回):小沢一郎が『平成の悪党』になる日より

(中略)現下の日本には、目に見えない2つの国家が存在する。一つは、昨2009年8月30日の衆議院議員選挙(総選挙)で、国民の多数派によって支持された民主党連立政権の長によって国民を代表する国家が存在する。もう一つは、官僚によって代表される国家だ。

内閣総理大臣の職に就いている鳩山由紀夫という1人の人間に、国民の代表という要素と官僚の長という要素が「区別されつつも分離されずに」混在している。官僚と国民の利害相反が起きるときに、総理のアイデンティティー(自己同一性)の危機が生じる。


官僚は、国民を無知蒙昧な有象無象と考えている。有象無象によって選ばれた国会議員は無知蒙昧のエキスのようなものと官僚は見下している。そして、国家公務員試験や司法試験に合格した偏差値秀才型のエリートが国家を支配すべきだと自惚れている。自民党政権時代は、「名目的権力は国会議員、実質的権力は官僚」という実質的な棲み分けができていたのを、民主党連立政権は本気になって破壊し、政治主導を実現しようとしていると官僚は深刻な危機意識を抱いている。この危機意識は、実際は官僚が権力を大幅に削減されることに対する異議申し立てに過ぎないのであるが、官僚の主観的世界では「このような輩が国家を支配するようになると日本が崩壊する」という「国家の危機」という集合的無意識になっている。


官僚は、現在、2つの戦線を開いている。第1戦線は、検察庁による小沢一郎潰しだ。第2戦線は外務官僚と防衛官僚による普天間問題の強行着陸だ。特に外務官僚は、「アメリカの圧力」を巧みに演出しつつ、自民党政権時代に官僚が定めた辺野古案が最良であることを鳩山総理が認めないならば、政権を潰すという勝負を賭けた。鳩山総理は、現状の力のバランスでは、官僚勢力に譲歩するしかないと判断し、辺野古案に回帰した。鳩山総理の認識では、これは暫定的回答で、段階的に沖縄の負担を軽減し、将来的な沖縄県外もしくは日本国外への模索を実現しようとしているのであろう。しかし、この状況を官僚は「国家の主導権を官僚に取り戻した象徴的事案」と受けとめている。


しかし、この象徴的事案は、官僚勢力に対する敗北になり、民主党連立政権が政治生命を喪失する地獄への道を整える危険をはらんでいる。筆者は、小沢幹事長がそのような認識をもっているのではないかと推定している。
小沢幹事長が「鳩山総理が平成の新田義貞になった」という認識をもつならば、自らが悪党になり、政局をつくりだそうとする。小沢氏が直接政権を握ろうとするか、自らの影響下にある政治家を総理に据えようとするかは本質的問題ではない。小沢一郎氏が「平成の悪党」になるという決意を固めることが重要だ。小沢氏が「平成の悪党」になる決意を固めれば、官僚に対する決戦が始まる。参議院選挙はその露払いに過ぎない。今後、天下が大いに乱れる。

面白い、大いに乱れてもらいたい。混乱の中で敵味方が明瞭にあぶり出されるであろう。現状維持の官僚ファシズム側につくのか、日本の民主主義の未来を切り開くために彼らに対抗するのか。そのことが重要だ。

その言やよし!

タイムズ紙に反論投稿・下地琉大名誉教授(2010年5月30日琉球新報)

【米ワシントン29日=与那嶺路代本紙特派員】

米軍普天間飛行場が辺野古移設となったことを「オバマ政権の勝利」と書いた米ニューヨーク・タイムズ紙に対し、下地良男琉球大名誉教授は「米国の民主主義の原則に反した勝利は自滅的だ」との反論を投書した。同紙の28日付読者欄に掲載された。
下地氏は編集者あてに「確かに、2006年合意にこだわるオバマ政権の圧力に、鳩山政権は負けた。だがオバマ政権は、その勝利が自滅的であることに気付くべきだ。非民主主義の国々に対してワシントンが主張する民主主義の原則に、矛盾している」と指摘。「大多数の沖縄県民は沖縄に基地を置くことに反対している。よくもオバマ氏は、同胞である鳩山氏の意思を無視することができますね」と痛烈に批判した。下地氏は名護市辺野古の海を写真に収め、写真集を出版するなどして、県内移設に反対している。

その言やよし!

共感ということ

荷風先生に「十六七のころ」という小文がある。書き出しはこうである。「十六七のころ、わたしは病のために一時学業を廃したことがある。若しこの事がなかったなら、わたしは今日のやうに、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたかもしれない」。

この文章の末尾近くで、鴎外先生の「私が十四五歳の時」という文章を引用している。すなわち、「過去の生活は食ってしまった飯のようなものである。飯が消化せられて生きた汁になって、それから先の生活の土台になるとおりに、過去の生活は現在の生活の本になっている。又これから先の、未来の生活の本になるだろう。しかし生活しているものは、殊に体が丈夫で生活しているものは、誰でも食ってしまった飯の事を考えている余裕はない」と。

全くその通りである。しかし、その故に、私は、鴎外先生よりも、荷風先生により共感するものである。というのも、私もまた十四五歳の頃に、病を得て一時学業を廃したことがあるからである。その頃を想うとなにやら無性に切なくなることがある。確かに、過去は今の、また未来の本となっていると感じる。その意味で鴎外先生は全く正しい。

「原則に従って生きる」ということ

加藤周一自選集第9巻の1998年の章に、作家・中村真一郎についての文章が4つ掲載されている。すなわち、「中村真一郎あれこれ」、「最後の日」、「『前衛』ということ」それに「中村真一郎、白井健三郎、そして駒場」である。前年の1997年12月25日に中村さんが亡くなったということがあった。加藤さんは中村さんの死い立会っている。「最後の日」とう文章にある通り。「中村のいない世界は、私にとって、彼がいた時の世界と同じではなかった」と記している。「中村真一郎は漫然と生きたのではなく、ある種の原則に従って生きていた」と。「中村真一郎あれこれ」という文章でも、「かくして戦後日本文学の『前衛』は原則に従って生き、原則に従って書いた。それは尊敬に値することである。」と書いた。「原則に従って生きた」のは、中村真一郎だけではない。そう書いた加藤周一さんもまた、見事に、原則に従って生きた、と思う。今日、DVD「加藤周一さん、九条を語る」が届く。不覚にもこれを見ながら、涙を止めることができなかった。失ったものの大きさを改めて想った次第。


DVD『加藤周一さん 九条を語る』

Paris Je T'Aime - 17 Quartier Latin

「パリ、ジュテームParis, je t'aim.」2006という愛をテーマにしたオム二バス映画を見た。パリ20区のうち18の区を舞台に、1区につき約5分間の短編映画にしている。その中の粋な一作のシナリオを採録してみた。
『カルチエ・ラタンQuartier Latin』監督フレデリック・オービュルタン/ジェラール・ドパルデュー

 夜のセーヌ川。遠くに街の光

 街灯が明るい、夜のカルティエ・ラタン 全体がセピア色。ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中する学生街。1968年の革命で敷石が学生の武器になった。

 タクシーから一人の老年の女、微笑ながら近づく老年の男 

女:ありがとう ※会話は英語である。米国人らしい。
 (男が歩み寄り)
男:やっときた
女:遅れてごめんなさい
男:景色を楽しんでいたよ 米国から来たらしい。後に飛行機の話が出てくる。対して、女はパリ住まい。
女:道が混んでて…とてのハンサムだわ
男:君もステキだ。どうしてる? しばらくぶりらしい。
女:飲みたいわ…疲れたの

 男と女が、とあるレストランへ


 
店主:マダム。こんばんわ。どうぞ…こちらへ 店主はフランス語で話す。男女ともそれを解する。席へ案内する。女の馴染みの店らしい。やはり、近所に住んでいるようだ。
店主:何になさいます?
男:今もワインを? 
女:そうよ。赤を
店主:リストです。そうぞ…マダムはグラーブGravesがお好きです ボルドーワイン。やや軽く、やさしい味わいのものが多い、らしい。
男:本当に?
店主:はい
男:ではグラーブを
店主:グラーブをグラス二つ
女:弁護士も一緒だと思った 紛争中か?
男:明日だ。君の方は?
女:あなたの弁護士に任せるわ。財産を隠すとも思えないし 離婚調停中らしい。とすると、この男女は夫婦。
男:今もここが?
女:大好きよ やはり、パル住まい。別居中らしい。
男:あの物書きは? 恋人がいるのか、この歳で。
女:とっくに切れたわ 
男:ほかの男と?
女:ええ お盛なことで…。
男:また作家か? さしずめ、サロンの女主人か?
女:いいえ。今の彼は働かない
男:何?
女:仕事というより趣味ね。サイクリストよ 裕福なご身分らしい。ツバメがいる?
男:何だって?
女:自転車乗りよ
男:自転車?どこを走る?
女:どこでも
男:そんな年で?
女:いいえ。年が違うのよ。私より若いわ…ありえる話でしょ…あなたなら分かるはずよ
男:君のことは永遠の謎だ この台詞が面白い。歳からすると数十年一緒に暮らしたのであろう。しかし、謎なのである、相手が。数十年も同じ男女が暮らすこと自体が、難しいことなのかもしれない…。
女:私のことはいいわ。結婚を決めてからビッキーとは順調なのね…式はいつ? 男にも女がいるらしい、やっぱり。
男:君のサインが済んだらすぐ…何か食べるかね? 確かに、離婚調停中。
女:どうぞ
男:機内で済ませた 飛行機で来たばかりらしい。
 (店主がワインを注ぐ)
女:本気なのね? 浮気の可能性もあると考えていたようだ。
男:もちろん
女:思いがけなかったわ。私たちが…
男:離婚する? そういうものだろうね。
 (女、頷く)
男:彼女が子供を欲しがってる。そろそろ30歳になるし 若い!
 (女、呆れたように笑う) そりゃ、呆れるわ。
女:子供!…冗談でしょ?
男:妊娠3ヶ月だ
 (女、男を見つめる)
女:今夜は驚くことばかり…私たち、孫が2人よ 
男:一緒に遊ばせるそうだ
女:すてきね
男:大家族だ 冗談ともまじめとも、ここまでくると、笑える。さすが、米国人。後に、養子の話が出てくる。因みに、加藤周一さんも養子をもらって育てた経験があるらしい。
女:子供がかわいそう…皮肉じゃないのと…仕合わせになって…いい父親だったわ 
男:ありがとう、ジェニィ
 (男、女を見つめる)
男:おかしな話と思う? 
女:そうねぇ、受け入れるのは難しいわ 米国人にしてもやはりねぇ…。
男:人間、苦労が必要だ…望みがある
女:何なの?
男:養子をもらう
女:養子?
男:ああっ
女:正気なの?
男:息子が欲しかった
女:すばらしい娘たちよ 娘が複数いるようだ。孫が二人。
男:もちろんだ
女:誰かいるの?心に決めた子が?
男:あぁ
女:誰?
男:君の自転車乗り。健康で運動が好き
女:泥仕合を繰り広げる?
男:いいとも
女:悪い人…でもそれ建設的なアイデアね、お互いの相手を養子にして、みんな一緒に仕合わせに暮らす。混乱するけど仕合わせだわ 離婚調停中の男女の会話として、この冗談は凄い。
男;駆け落ちするか? 女は駆け落ちの経験があるようだ。フランス映画、ジャンヌ・モロー主演「恋人たち」を想い出す。
 (女、ちょと考え込む)
女:一度したでしょ
男:もっと、うまくいった…君がその口を閉じていれば
女:あなたがもっとズボンを脱がなきゃね この一連のやり取りも大人の男女の会話として面白い。自他を一定の距離を置いて客観的に見ることが出来ている。これを「成熟した大人」という。
 (男、にやっと笑う)
女:今夜はとても楽しかった。帰るわ。早く寝ないと
 (女、次いで男が立ち上がろうとする)
女:いいのよ、車を拾うから…明日は何時?
男:ホテルで2時
女:じゃまた…弁護士を連れて行くわ。気に入るわよ、孤児なの
 (男、笑う)
男:悪い女だ 英語で、Bitch と言っている。このアバズレ、ぐらいの罵倒する意味合がある。
 (女、出口の方へ)
店主:おやすみなさい
 (女、ドアのところで振り返る。男、片手を上げる)
男:チェックを
店主:今夜は店のおごりです 粋な計らい。こんな店があるといいなぁ。自分の人生に寄りそうような店が。
男:ありがとう
 
 ネオンの中をポケットに手を突っ込んで歩く男 孤独な老紳士。淋しげに見える。

 扉から女が暗い部屋に入ってくる。電灯を点ける。大きな本棚に多くの書物が並んでいる。女が職業が知的なものあることが感じさせる 学校の教師か、英文学が、フランス文学専攻の。
 
 ガラス窓に映る女の顔。タバコの白い煙 女も、寂しげで醜く老けて見える。明らかに、人生の澱が沈殿している醜さだろう。男も同じ。別の角度から見た人生のある一面。無残、という言葉が浮かぶ。






別居中の老年の男女のやり取りが興味深い。長く暮らしながらも、まだ、お互いに理解ができない部分がある。まだその関係の中に驚きがあるというのが面白い。枯れたわけでもなく、分別もあって感情に流されるわけでもない。しかし老いの孤独あるいは人生の悲哀も感じさせる。セピア色のカルチエ・ラタンの夜景が美しい。静かに胸の中に染み込んでくるものは、何か?んにしても、「今夜は店のおごりです」とは、粋だね。最後に救われた気がする。どんな結末であれ、自分の人生は、畢竟、受け入れるしかないからなぁ。