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2010-08-20

フランス映画に見る女と男

往年のフランス映画を2本観た。いずれも主演はジャンポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933年生まれ)。

ピーター・ブルック監督、ジャンヌ・モロー共演、マルグリット・デュラス原作の「雨のしのび逢いModerato cantabile(音楽用語=中くらいの速さで歌うように)」(1960)、もう一本が、ジャン・ベッケル監督「勝負(かた)をつけろUn nommé La Rocca(ロッカと呼ばれる男)」(1961)。

「雨のしのび逢い」は、偽善的なブルジョア社会と夫に嫌悪感を募らせ、そこから脱出したいと願望する人妻(ジャンヌ・モローJeanne Moreau、1928年生まれ)と閉塞する現状から脱出したいと願望する男(ジャンポール・ベルモンド)の悲恋物語。最後は情夫に捨てられ人妻の精神的な死で幕を閉じる悲劇。



ピーター・ブルック(Peter Brook、1925年生まれ)は、RSC(Royal Shakespeare Company)で独創的な演出で夙に知られる演出家。冒頭で起こる若い男が人妻を銃で撃ち殺す事件が二人の運命を暗示する筋書きの上手さ、最後の場面、絶望の声を上げくず折れる彼女を夫の乗る車のヘッド・ライトが無慈悲にも照らし出す演出に息をのんだ。

ジャンヌ・モローはまさに女ざかり。若いベルモンドとの道ならぬ恋に陥っていく人妻の戸惑いと情念の激しさを好演。実際の年齢からも5歳年上。官能的な女の色香を存分に感じさせてくれる。この映画はジャンヌ・モローを観るためにある。カンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲得している。


「勝負(かた)をつけろ」は、無実の罪で服役する親友を救うためにすべてを犠牲にし献身する男の友情、その友情に応えよとして男の犯す愚かな行為によって最愛の人を死に至らしめ、彼の行為が全て無駄になるという結末で終わる悲劇。








これは、ベルモンドが演じる、フランス人が理想とする男っぷりのよさを観るための映画。友情に篤い一匹狼。目的のためにはあらゆる試練を乗り越える頑強な肉体と精神を持っている。あくまで行動の人である。外見は冷静そのものだが、内面は熱い。


日本の題名のセンスの無さにあきれるが、映画はいかにもフランス映画という感じ。まず社会の規範や秩序よりも個人を優先するフランス独特の個人主義を強く感じる点で共通。また曖昧さを廃する硬質な論理構成もフランス映画らしい。

演出においても、感情表現や大げさな行動は抑制されあくまで淡々と行動と言葉が積み重ねられていく。その結果対象との適切な距離感が保たれ、過度の感情移入が避けられる。しかしその効果として逆に観終わった後に強い余韻が観客の心に残るという手法はさすが。

この映画文法にジャンポール・ベルモンドが正に適役。最初から最後まで、感情を制御しポーカー・フェースで通している。無駄のない行動と寡黙だが断固とした言葉の人に徹している。何の苦も無くやすやすと既成の秩序からはみ出す自由を体現している。そこにはいささかも「甘さ」がない。特に後者でみられる演技から自然と滲み出る意図せぬ滑稽味・飄逸さも彼の魅力の一つだろう。

要するに、ジャンヌ・モローがフランス人好みの「女の魅力」を発散させているとすれば、ジャンポール・ベルモンドは「男の魅力」満載なのだ。

ジャン-リュック・ゴダール監督「勝手にしやがれÀ bout de souffle」(1960)の主人公にも通じる。これがフランスにおける彼の人気の秘密であろう。アラン・ドロンの「甘さ」は、外国人には、特に日本人にはたまらないらしいが、フランス人の好みではないらしい。

2010-08-04

ホノカアボーイ~岡田将生



ムーンボー、つまり月の虹。ハワイでは、滅多に見ることができないため、見ることができれば願い事がかなうと言い伝えられているらしい。岡田将生、倍賞千恵子、正司照枝、喜味こいし、深津絵里、松坂慶子などが出演する映画「ホノカアボーイ」(真田敦監督、2009)で知った。

特に倍賞千恵子がかわいい老女を演じているのは嬉しい。豪快に鼾をかく散髪屋の老女役の正司照枝、喜味こいしのエロ爺さんもキュート。松坂慶子の堂々たる太鼓腹も圧感。チョイ役の深津の滑稽味など、ハワイのちっちゃなホノカアという町の住人がそれぞれスローライフを体現している。佳作。こんな社会を目指せないかなぁ。馬鹿の一つ覚えのように「成長」とか「開発」とか「1番」とか、いつまでもトンチンカンでアホなこといってないでさぁ。




アイスクリームが とけそうだから
雨のなかを 歩くのをやめて
虹が消えるまで 虹が消えるまで
僕の好きな この道に立ってた

この世界に もしも海がなかったら
たぶん君も いないだろうって
この気持ちも この歌も
この風も この虹も なかったのかな?

虹が消える 虹が消える 虹が僕の前から
虹が消える 虹が消える 虹がこの世界から

いつかの別れが 僕らにきても
それは特別 意味などないって
虹が消えたあと 虹が消えたあと
君の好きな あの歌がきこえてた

この世界が ゆっくり教えてくれた
大切なのは 始まりなんだって
この気持ちも この歌も
この風も この虹も 嘘じゃないよね?

虹が消える 虹が消える 虹が僕の前から
虹が消える 虹が消える 虹がこの世界から

雨と太陽と君がいたら また虹はかかるから
雨と太陽と君がいたら また虹はかかるから






原作は、吉田 玲雄著「ホノカアボーイ」(幻冬舎)


2010-06-02

Paris Je T'Aime - 17 Quartier Latin

「パリ、ジュテームParis, je t'aim.」2006という愛をテーマにしたオム二バス映画を見た。パリ20区のうち18の区を舞台に、1区につき約5分間の短編映画にしている。その中の粋な一作のシナリオを採録してみた。
『カルチエ・ラタンQuartier Latin』監督フレデリック・オービュルタン/ジェラール・ドパルデュー

 夜のセーヌ川。遠くに街の光

 街灯が明るい、夜のカルティエ・ラタン 全体がセピア色。ソルボンヌ大学をはじめ大学が集中する学生街。1968年の革命で敷石が学生の武器になった。

 タクシーから一人の老年の女、微笑ながら近づく老年の男 

女:ありがとう ※会話は英語である。米国人らしい。
 (男が歩み寄り)
男:やっときた
女:遅れてごめんなさい
男:景色を楽しんでいたよ 米国から来たらしい。後に飛行機の話が出てくる。対して、女はパリ住まい。
女:道が混んでて…とてのハンサムだわ
男:君もステキだ。どうしてる? しばらくぶりらしい。
女:飲みたいわ…疲れたの

 男と女が、とあるレストランへ


 
店主:マダム。こんばんわ。どうぞ…こちらへ 店主はフランス語で話す。男女ともそれを解する。席へ案内する。女の馴染みの店らしい。やはり、近所に住んでいるようだ。
店主:何になさいます?
男:今もワインを? 
女:そうよ。赤を
店主:リストです。そうぞ…マダムはグラーブGravesがお好きです ボルドーワイン。やや軽く、やさしい味わいのものが多い、らしい。
男:本当に?
店主:はい
男:ではグラーブを
店主:グラーブをグラス二つ
女:弁護士も一緒だと思った 紛争中か?
男:明日だ。君の方は?
女:あなたの弁護士に任せるわ。財産を隠すとも思えないし 離婚調停中らしい。とすると、この男女は夫婦。
男:今もここが?
女:大好きよ やはり、パル住まい。別居中らしい。
男:あの物書きは? 恋人がいるのか、この歳で。
女:とっくに切れたわ 
男:ほかの男と?
女:ええ お盛なことで…。
男:また作家か? さしずめ、サロンの女主人か?
女:いいえ。今の彼は働かない
男:何?
女:仕事というより趣味ね。サイクリストよ 裕福なご身分らしい。ツバメがいる?
男:何だって?
女:自転車乗りよ
男:自転車?どこを走る?
女:どこでも
男:そんな年で?
女:いいえ。年が違うのよ。私より若いわ…ありえる話でしょ…あなたなら分かるはずよ
男:君のことは永遠の謎だ この台詞が面白い。歳からすると数十年一緒に暮らしたのであろう。しかし、謎なのである、相手が。数十年も同じ男女が暮らすこと自体が、難しいことなのかもしれない…。
女:私のことはいいわ。結婚を決めてからビッキーとは順調なのね…式はいつ? 男にも女がいるらしい、やっぱり。
男:君のサインが済んだらすぐ…何か食べるかね? 確かに、離婚調停中。
女:どうぞ
男:機内で済ませた 飛行機で来たばかりらしい。
 (店主がワインを注ぐ)
女:本気なのね? 浮気の可能性もあると考えていたようだ。
男:もちろん
女:思いがけなかったわ。私たちが…
男:離婚する? そういうものだろうね。
 (女、頷く)
男:彼女が子供を欲しがってる。そろそろ30歳になるし 若い!
 (女、呆れたように笑う) そりゃ、呆れるわ。
女:子供!…冗談でしょ?
男:妊娠3ヶ月だ
 (女、男を見つめる)
女:今夜は驚くことばかり…私たち、孫が2人よ 
男:一緒に遊ばせるそうだ
女:すてきね
男:大家族だ 冗談ともまじめとも、ここまでくると、笑える。さすが、米国人。後に、養子の話が出てくる。因みに、加藤周一さんも養子をもらって育てた経験があるらしい。
女:子供がかわいそう…皮肉じゃないのと…仕合わせになって…いい父親だったわ 
男:ありがとう、ジェニィ
 (男、女を見つめる)
男:おかしな話と思う? 
女:そうねぇ、受け入れるのは難しいわ 米国人にしてもやはりねぇ…。
男:人間、苦労が必要だ…望みがある
女:何なの?
男:養子をもらう
女:養子?
男:ああっ
女:正気なの?
男:息子が欲しかった
女:すばらしい娘たちよ 娘が複数いるようだ。孫が二人。
男:もちろんだ
女:誰かいるの?心に決めた子が?
男:あぁ
女:誰?
男:君の自転車乗り。健康で運動が好き
女:泥仕合を繰り広げる?
男:いいとも
女:悪い人…でもそれ建設的なアイデアね、お互いの相手を養子にして、みんな一緒に仕合わせに暮らす。混乱するけど仕合わせだわ 離婚調停中の男女の会話として、この冗談は凄い。
男;駆け落ちするか? 女は駆け落ちの経験があるようだ。フランス映画、ジャンヌ・モロー主演「恋人たち」を想い出す。
 (女、ちょと考え込む)
女:一度したでしょ
男:もっと、うまくいった…君がその口を閉じていれば
女:あなたがもっとズボンを脱がなきゃね この一連のやり取りも大人の男女の会話として面白い。自他を一定の距離を置いて客観的に見ることが出来ている。これを「成熟した大人」という。
 (男、にやっと笑う)
女:今夜はとても楽しかった。帰るわ。早く寝ないと
 (女、次いで男が立ち上がろうとする)
女:いいのよ、車を拾うから…明日は何時?
男:ホテルで2時
女:じゃまた…弁護士を連れて行くわ。気に入るわよ、孤児なの
 (男、笑う)
男:悪い女だ 英語で、Bitch と言っている。このアバズレ、ぐらいの罵倒する意味合がある。
 (女、出口の方へ)
店主:おやすみなさい
 (女、ドアのところで振り返る。男、片手を上げる)
男:チェックを
店主:今夜は店のおごりです 粋な計らい。こんな店があるといいなぁ。自分の人生に寄りそうような店が。
男:ありがとう
 
 ネオンの中をポケットに手を突っ込んで歩く男 孤独な老紳士。淋しげに見える。

 扉から女が暗い部屋に入ってくる。電灯を点ける。大きな本棚に多くの書物が並んでいる。女が職業が知的なものあることが感じさせる 学校の教師か、英文学が、フランス文学専攻の。
 
 ガラス窓に映る女の顔。タバコの白い煙 女も、寂しげで醜く老けて見える。明らかに、人生の澱が沈殿している醜さだろう。男も同じ。別の角度から見た人生のある一面。無残、という言葉が浮かぶ。






別居中の老年の男女のやり取りが興味深い。長く暮らしながらも、まだ、お互いに理解ができない部分がある。まだその関係の中に驚きがあるというのが面白い。枯れたわけでもなく、分別もあって感情に流されるわけでもない。しかし老いの孤独あるいは人生の悲哀も感じさせる。セピア色のカルチエ・ラタンの夜景が美しい。静かに胸の中に染み込んでくるものは、何か?んにしても、「今夜は店のおごりです」とは、粋だね。最後に救われた気がする。どんな結末であれ、自分の人生は、畢竟、受け入れるしかないからなぁ。

2010-04-13

東京だョおっ母さん

島倉千代子で思い出されるのが、伊丹十三監督のビュー作、傑作映画「お葬式」の一場面。父親、真吉の通夜の夜、通夜の喧騒が去って初めてしみじみと肉親の死に対面する大事なシーン。娘の千鶴子(宮本信子)が母親(菅井きん)と従兄弟の茂(尾藤イサオ)とが島倉千代子の「東京だョおっ母さん」を歌う。1957年発売。島倉千代子、19歳!因みに、デビューが17歳。発売当時の音源で聴いている。高度経済成長以前、まだ戦争の記憶が残っていた時代。

茂:お疲れさま
3人が杯で酒を飲む。
茂:ほんとに伯父ちゃんちゅうのは自分のことしか考えやせんでね。わしゃ、顔も見とうないわ。金は持っとるけど、ひとの気持ちの分からん人だでねぇ。わしゃあ、大っ嫌いじゃ。あんたの父ちゃんもあの伯父さん嫌いだった。んなもんだで、この5,6年は全然三河にも寄り付かんかったでしょう・・・ほいじゃあ、真吉っつぁんの顔でも見せてもらおうかな
茂、棺の蓋をあけて、真吉の死に顔を見る
茂:真吉っつぁん
と、茂、啜り泣く。ここで初めて千鶴子と母親、泣く
茂:ほんなら、寝よか
千鶴子:ゴロ寝でいいわね
茂:ああ、なんでもええ、ええ
千鶴子:でも、もう一杯飲もうか。なんかしんみりしちゃったじゃないの。こいうの父さん嫌いよ
母親:通夜は賑やかにやってくれと言っとったでね
千鶴子:歌でも歌いましょうよ。お父さんが好きだった歌
茂:島倉千代子!
千鶴子:そう、東京だョおっ母さん
茂:あれは千鶴ちゃん、旅行会で宮津へ行ったとき、お父さんが半日がかりで芸者から習っとたがや
千鶴子:お母さん、歌おう
(歌う)久しぶりに手を引いて 親子で歩けるうれしさに
小さいころが浮かんできますよ おっかさん
ここが ここが 二重橋 記念の写真を撮りましようね
千鶴子:おっ母さん、あれが二重橋よ。ちゃらら、ちゃらら、うちゃちゃちゃ、ちゃらら、ちゃらら、うんちゃちゃちゃ



カメラが、二階から一階へ移動。スタンドの光の中に、侘助(山崎努)の姿がある。
侘助:女房たちが歌っている頃、私はまだ起きていた。まだVTRで明日の挨拶の研究に余念がなかったのである



東京だョおっ母さん
作詞 野村俊夫
作曲 船村徹

久しぶりに手を引いて 親子で歩けるうれしさに
小さい頃が浮かんで来ますよ おっ母さん
ここが ここが 二重橋 記念の写真をとりましようね

やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下でさぞかし待つだろう おっ母さん
あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも

さあさ着いた着きました 達者で永生きするように
お参りしましよう 観音様ですおっ母さん
ここが ここが浅草よ お祭りみたいに賑やかね


2010-02-15

アニメーションの力

二つの短編アニメーション映画を観た。

一つは、アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞したオランダのアニメ作家・マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督「岸辺のふたり(原題:Father and Daughter)」(2000年)。上映時間が8分間の中に一人の女性の一生を凝縮してしまうという離れ業をやってのける!傑作!
父親に連れられ、川の岸辺へやってきた幼い少女。しかし父は、自分を置いてボートに乗って去ってしまった。その日から、雨の日も、強い風の日も、少女は父の帰りを待って岸辺にやってくる。やがて少女は成長し、恋をして、妻となり家族を持つ。過ぎ行く日々の中、彼女は岸辺の道を通り過ぎるたびに立ちどまり、父の面影に思いをはせる。いつの間にか彼女は、父の年齢を越えて老女となっていた。老女は岸辺に立ち、今は水も干上って草原となった窪地へ下りていくと・・・。

もう一本が、加藤久仁生監督「つみきのいえ(仏題:La maison en petits cubes)」(2008年)。上演時間12分余り。2008年6月にフランスのアヌシー国際アニメーション映画祭でアヌシー・クリスタル賞(最高賞)を受賞。2009年2月、第81回アカデミー賞において短編アニメ映画賞を受賞した作品。これまた人生を凝縮した傑作。
積み木を積み上げたような家に住む老人。床に開けた扉を開けて釣りを初める。実はこの家は海の中に建っていて、老人の住む部屋は最上階。その下の全体は水の中なのだ。意識下の記憶を象徴しているのだろうか。老人は潜水夫を着て、階下の部屋を訪ねる。忘れていた記憶を辿る旅。その部屋の一つひとつには、かつて老人が過ごした過去の記憶が詰まっているのだった・・・。

映像と音楽だけでここまで深い表現ができるか、と感動することしきり。多義的なので、さまざまな思いを刺激される。余りに切なく感涙を禁じえない。これに比べると「崖の上のポニョ」は残念ながらいささか薄っぺらで「駄作」と言わざるを得ないなぁ。少なくとも冒頭の導入部分を除いては・・・。










2010-01-19

ヨーロッパ映画の底力

このところ印象的な映画を何本か観た。スサンネ・ビアSusanne Bier(1960年生)というデンマークの女性監督。「しあわせな孤独」(2002)、「ある愛の風景」(2004)、「アフター・ウェディング」(2006)、「悲しみが乾くまで」(2007)の4本。それから、英国のマイケル・ウィンターボトムMichael Winterbottom(1961年生)監督「ひかりのまちWonderland」(1999)。











ビア監督の映画に共通するテーマは、「死」や「喪失」である。近親者の突然の死や自分自身の「死」あるいは事故による身体機能の喪失をどのように受け止めていくか、という重いテーマ。心理学的には「悲嘆の心理学」という分野だが、この監督の人間に対する認識がとても深いことに驚く。またそのテーマに対する距離感、すなはち、登場人物との距離の取り方がすばらしい。だから細部の積み重ねに強い説得力がある。科学者のような冷厳な観察者であると同時に人間の弱さや強さを包み込む包容力を持ち合わせているのである。だからテーマにもかかわらず決して絶望的な映画ではない。静かな「希望」がある。キリスト教的ユマニスムの伝統の厚みだろうか。この監督の映画に比べるとわが邦の「おくりびと」が薄っぺらでチャチに見えてしまうのは如何ともし難い。



「ひかりのまち」も傑作。テーマは家族という形式の崩壊に伴なう、どうしようもない「孤独」とそれでも家族あるいは人と人との絆をなんとか保持または獲得しようと抗う人びと。映画では最後に一縷の「希望」が残されるが、崩壊寸前の「絆」はかろうじて持ちこたえられているという状況にかわりはない。むしろ必然的に近い将来崩壊するであろうことが予感させられる。英国社会の現状がよくわかる。ふと小津監督の「東京物語」が頭をよぎる。暗闇と「街の光」や「花火」の明るさとの対照が鮮烈な印象を与える。それとマイケル・ナイマンの音楽がなんともすばらしい。


Michael Nyman - Molly - Wonderland




2010-01-11

不思議な映画を観た

「厄介な男・・からっぽな世界の生き方THE BOTHERSOME MAN(2006)」というヘンテコリンなノルウェー映画を観た。(ネタバレあり)





ある平凡な男が地下鉄に飛び込むところから始まる。暗転後、バスで荒涼とした場所に下ろされる。そこから大都会へ連れて来られるが、何か変だ。住まいや仕事から何から何まで与えてもらえる「理想的な」世界と思いきや。「欲望」は全て満たされているが、逆に欲望の対象がない、あるいは、何も求めてはいけない。しかし、何かが足りない。総じて言えば「生きている感覚」。何でもない食べ物の匂いや味、子どものはしゃぐ声、水辺の音など。女と関係しても感覚的なエクスタシーがない。セックスはいつでもOKだが、関係はいたって希薄。誰とでも関係するが一人に執着することは一切ない。つまり誰でもいい、だから自分を必要とする人がいない!この空虚感に絶望して地下鉄に飛び込む。冒頭の場面と同じ。


ところが死なない。死ねないらしい。同じ感覚の人間もいるらしい。その男のことが気になる。その男の地下にある部屋に押入る。いい匂いがする。懐かしい匂いが。壁から匂ってくるらしい。子どものはしゃぐ声も聞こえる。その発生源を目指して壁に穴を穿っていく。





やっと手が出せる穴ができる。突き出した手にサンドイッチが握られる。なんという美味さだ。男は貪り食う。しかしその時駆けつけた係官に逮捕される。そしてこの世界から追放される、というストーリー。


死後の世界とも考えられるし、北欧的福祉社会の究極の反ユートピアとも、はたまた「優しい」全体主義社会とも考えられる。「生きる感覚」がまったくない世界を提示し、「生きる感覚」を逆に意識化させられるという不思議な映画ではある。


2009-12-03

恋人たちの食卓 (飲食男女 Eat Drink Man Woman, 1994)

飲食男女Eat Drink Man Woman



出色のオープニングだろう。映画、または中華料理への期待に・・・。くいしんぼうにはたまらんなぁ。

2009-12-02

2009-11-25

かいじゅうたちのいるところWhere The Wild Things Are

私のお気に入り絵本「かいじゅうたちのいるところWhere The Wild Things Are」(モーリス・センダックMaurice Sendak著、 じんぐう てるお翻訳、冨山房)がなんとほんとの「着ぐるみかいじゅう映画」になった。慶賀に堪えない。わくわくものである。FaceBookでもうすでに190万人近いFanが記録されている。まだ観てないので予告編をご紹介するしかないのが残念。












2009-11-14

キー・ラーゴ Key Largo

ジョン・ヒューストンJohn Huston監督「キーラーゴKey Largo」(1948年)を観た。マクスウェル・アンダーソンの同名原作戯曲から脚色した作品。ハンフリー・ボガートHumphrey Bogart、ローレン・バコールLauren Bacall、エドワード・G・ロビンソンEdward G. Robinson出演。


なんと言っても陰影のあるボガートの魅力に尽きる。映画の公開が1948年である。第二次世界大戦が終わって3年しか経ていない。戦争で勝利したものの人びとの心の傷はまだ癒えていない。ボガートは戦争が終わり生きる目的を失った元兵士の虚無を背負っている。世間の戦争における英雄への賛美や畏敬も彼にとっては素直には受取れない。一方、戦死した兵士の遺族の悲しみも存在する。戦勝の気分の裏に隠れた戦場で共に戦って生き残ったものや戦死者の遺族の悲しみと心の傷。その魂の回復がこの映画の主題である。そんな彼らと対照的なのが、私利私欲のために人を殺すことを何とも思っていない悪党たちである。彼らを最後は打ち負かし、未来を生きる意味を見出す元兵士。そしてその彼に救われ共に生きる希望を得る戦争未亡人。戦後娯楽映画の典型的な型がここにあるのではないだろうか。黒澤明監督の「酔いどれ天使」(1948年)や「野良犬」(1949年)を思い出す。陰影に富んだ大人の魅力のボガードとエネルギッシュで直情的な青年を演じた三船、この対照も面白い。

第2次大戦の復員将校フランク・マクラウド(ハンフリー・ボガート)が、フロリダ半島の南の小島キー・ラーゴに、イタリア戦線で失った部下の父、その島でホテルを経営しているテンプル老人(ライオネル・バリモア)と部下の未亡人ノーラ(ローレン・バコール)を訪ねる。部下の戦死の様子を話し家族に悔やみを言うためである。ところがそのホテルには、ギャングの頭目ジョニイ・ロコ(エドワード・G・ロビンスン)の一味が秘密の取引のために滞在していた。折りしも、大型のハリケーンがキーラーゴを襲う。ロッコがハリケーンを怖がっている様子に口ほどにもないと皆に蔑まれる滑稽も映画の薬味。その間のホテル内での殺人などの緊迫した場面がつづき、最後にジョニイ・ロコ一味がフランク・マクラウドの運転するボートでキューバへ逃走しようとするが、フランクの活躍で一味は皆殺しになるという筋書き。引き上げる船を操縦するボガートの満足げな、ちょっと大げさなのではと思えるぐらいのあからさまな笑顔が印象的。

主題とは関係ないが、フィルムの保存状態が素晴らしいのには、いつもながら感心させられる。文化としての映画への尊敬があるのではないかと思ったりする。単なる物量の話ではない。小津監督や溝口監督、山中監督など日本の映画監督の貴重な作品の多くが失われ、保存状態も良くない日本の現状を考えるとまことに羨望の念を禁じえない。

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2009-11-09

映画は「監督」だ。

1.(F・1)タイトルバック
一本道。
左右は一面の桑畑。
遠く小さな人影―それがだんだん近づく―この映画の主人公の浪人である。

―タイトル終わる―                                  

これは黒澤明監督「用心棒」(1961年)の冒頭シーンの「シナリオ」(脚本:菊島隆三・黒澤明)の記述である(キネマ旬報4月号増刊「黒沢明〈その作品と顔〉」(1963年))。先に「映画は『シナリオ』だ。」を書いたが、しかし、今回は「映画は『監督』だ」の例を示したいと思う。よいシナリオも凡庸な監督に掛かった日にはどうしようもない作品になってしまうだろう。逆に、能力のある監督にめぐり合えば見違える作品が出来上がるということも、また真実である。多言を要しない。実際にご覧いただこう。一つの例として、これだけの「シナリオ」が「天才」に掛かるとどう変貌するか。冒頭から如何に観客のこころを鷲掴みにするか。如何に主人公の性格から物語りの舞台までを要領よく紹介しているか。それによって如何に観客が彼への好奇心を刺激され、これから始まる物語に対するわくわくするような期待感を抱かせられるか。この映画の眼目は、この主人公を如何に魅力的に見せるかに掛かっていた。黒澤監督の「映画術」の一端が窺える名場面である。




この「タイトルバック」がワンシーン・ワンカットで撮られていることに注目。およそ三分足らずの間、カメラはじっと眼を凝らして主人公の後姿を追っている。この時、カメラはまさに「観客の眼」になったのである。因みに、カメラは名匠宮川一夫。そして佐藤勝の音楽。我々は、映画は時間の芸術である、ということを典型的な形で確認できるであろう。至福の時間である。


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2009-11-06

映画は「シナリオ」だ。

映画は「シナリオ」だ。「シナリオ」が良くてもダメな映画はいくらでもある。しかし、できの悪い「シナリオ」でできの良い映画ができた例はまずない。


ピエトロ・ジェルミ監督・主演「刑事」(1959年、イタリア)はそのことを教えてくれる格好の映画だ。まずは「シナリオ」を褒めねばならない。殺人事件の捜査の過程に美しい面も醜悪な面も含めてさまざまな人間模様が明らかにされていく。それが収斂し事件は解決するかに見えた。ところがそこに思わぬどんでん返しが待っている。シナリオの勝利だ。ムダな場面が一つもない。

最初、観客も無責任な野次馬の一人だ。次第に事件の真相を追う刑事たちに感情移入していく。そこには刑事が暴いていく偽善的な人間たちの赤裸々な姿がある。正義感が観るものを怒りに駆り立てる。その感情が頂点に達したとき、観客は思わぬ袋小路に直面し、感情のやり場に困ることになる。振り出しに戻ってしまうのだ。やり場のない鬱屈した感情。しかし、その感情は一気に捌け口を見出すことになる。そして今までの自分たちの感情にある種の後ろめたさを感じなければならない。犯人であるべき人間が実は犯人ではなく、犯人であってはならない人間が実は犯人であったという苦い感情が湧く。その後ろめたさが社会の不条理に対するやるせなさと一組の男女への同情となって開放されることになる。

シナリオのできも素晴らしいが、それにも増して演出のテンポが頗る軽快である。監督のピエトロ・ジェルミが主演の刑事役を演じる。この刑事のてきぱきとことを処理していく手際そのものが映画のテンポとシンクロしているのである。

それから何と言っても、ピエトロ・ジェルミの演技だ。飄々としていながら部下に的確に指示をだし、猛烈に厳しい態度をとりながらも人への思いやりを感じさせる。正義感に貫かれた行動が身上。それでいて滑稽味もあるという複雑な役どころだが、ジェルミの人格があっての深みのある魅力的な人物象となった。

最後のシーン。「アモーレ・アモーレ・アモーレ・アモレミオ~」(「死ぬほど愛してSinno' me moro」作曲:カルロ・ルスティケッリの哀切な主題歌とともに、クラウディア・カルディナーレの姿が目に焼きつく。




2009-11-01

世間師と寅さん

今日は、いやに生暖かい風が吹いてます。北海道は逆に吹雪だそうです。豚インフルにはご注意。

さて、民俗学者の宮本常一さんの名著「忘れられた日本人」(岩波文庫)をまた読み直しています。今までに何回読んだことか。そのたびに新しい発見がある不思議が本なのです。



この小さな本を読んでいて感じるのは、私たちの「自己イメージ」が如何に偏っているかということです。端的にいってしまえば、私たちはいかに「官製」のイメージを刷り込まれているか。動物行動学における「刷り込み」ですね。現代日本では「個性」を大事になどといいますが、戦前、特に明治以前の人びとの方がよっぽど個性的だったのでは考えさせられます。

このなかで「世間師」と呼ばれる興味深い人びとが登場します。私の中では、彼らの存在は「男はつらいよ」の寅さん=車寅次郎と結びつくのですが、広く世間を渡り歩く「自由人」としてのイメージですね。

「世間師」というのは、西日本、特に山口県あたりでよく聞かれた言葉で、各地を旅し広い見聞を持ち、世間のことを良く知っているだけでなく、ある見識を持っていて、共同体に何か事ある時には良き相談相手となり、周囲の人に役立つ人だというのです。

例えば、「男はつらいよ/知床慕情」(第38作、1987年)。マドンナ・りん子(竹下景子)が「とらや」の面々と寅について話す場面から。









りん子「でもね、知床という土地は夏には昆布、秋は秋アジ、冬はスケソウダラ、季節季節にいろいろな人が全国から仕事をしに来るから、よその人が1ヶ月や2ヶ月滞在していてもちっとも不思議じゃないんですよ」 ⇒実際「世間師」のよく集まる土地というのがあるらしいのです。 

さくら「へえ~」
りん子「いえ、寅さんて、もともとそう言う疑問を抱かせない人なんです。つい昨日会ったばかりなのに、ずっと昔から一緒にいる人のような」
博「なれなれしいからな、兄さん」 ⇒他者との世間的な壁がない。いかなる職業、身分、境涯の人とでも分け隔てなく付き合うことができる。それでいて他者の気持ちに関係なく、いきなり土足でこころに入り込むようなまねは絶対しないのが寅さんです。これが「自由人=世間師」たる所以です。

りん子「自由なんですよ、考え方が。みんな言ってますよ、寅さんとしゃべっていると、あくせく働くのが嫌になるって…フフッ」 ⇒キーワードは「自由」。ものの考え方に世間的な意味でのしがらみがない。「価値自由」な存在。
おばちゃん「そういう悪影響を他人に与えるんですよ、あの男は」 ⇒あ~、やだやだっておいちゃんもよく言っています。そんな寅さんは世間から見れば「異人」なのです。
りん子「いえ、そうじゃないんです。寅さんは、あの、人生にはもっと楽しい事があるんじゃないかなって思わせてくれる人なんですよ」  
博「へえ、優しい見方ですね」

知床に滞在中、寅はなにかにつけ土地の人の相談にのっていました。


例えば、りん子の離婚問題について親子の関係を修復したり、原因を解説したり、船長(すまけい)の子ども問題に言及したり、りん子の親爺の順吉(三船敏郎)と「はまなす」のママ・悦子(淡路恵子)との恋の取り持ちをしたりと、大活躍でした。

「世間師」は広い世間の情報を伝えるだけでなく、その土地の問題解決の相談にのったりする役割を持っていたというから、まさに寅は世間師の資格があります。


この後、イソップ物語「アリとキリギリス」の話が続きます。

さくら「でもね、それも程度問題じゃないかしら。ほら、イソップにそんな話があったじゃない」
博「どんな?」

さくら「暑い夏に汗水たらして働くのがアリで、それをバカにして歌ばっかり歌っていたキリギリスが寒い冬になると凍えて死んでしまった話」 ⇒寅に対する代表的意見ですね。定住者で地道な暮らし方をする「とらや」の面々からはそう見えるんでしょうね。寅だって遊んでいるわけじゃないのですが。
りん子「あら?じゃあ寅さんがキリギリス?」 ⇒ちょっと不満そうですね。さくらや博たちなど世間の中にいる人間には、寅さんの本質がよく分かっていないのかも知れません。だからこそ寅さんは、彼ら「世間」に生きる人びとにとっては、軽蔑の対象であると同時に畏敬の対象でもあるのでしょう。 
さくら「そう、小学校のとき学校の先生にその話聞いてね、涙が出てしょうがなかったの、お兄ちゃんの事思い出して」 ⇒兄思いのさくら!涙もんです。寅に聞かせてやりたいねぇ。

博「キリギリスか…」 
りん子「…」 
おばちゃん「そういえばあの男、キュウリとナスビが大好きだもんねえ」 ⇒出ました!おあばちゃんのボケが! 

因みに、最近の若者たちは「アリとキリギリス」の話をこう解釈しているのだそうです。 

「食べ物をしっかり貯えたアリは、ずっと今まで働いてばかりいたので、唄も歌えないし楽器も演奏できない。一方歌を歌いながら楽器を演奏してばかりいたキリギリスは、冬の食べ物を全く貯えていない。それで、アリたちはキリギリスに唄や楽器を演奏してもらい、その代わりに食べ物をそのたびに分け与え、アリはアリで心が潤って満足し、キリギリスも飢え死にしなくてすんだ、ということだ。」

え~っ!のけぞっちゃうますね。変に功利的というか。「飢える」ということのリアリティ無き現代ゆえか。食糧は外国から輸入すれはよい、食糧自給率が40%でも不安を覚えない現代日本ゆえか。「相互扶助」的な考え方で現代的だと評価する向きもあるようですが。古いのかしら、私は?寓話も時代の移り変わりで、その解釈も変わっていくということでしょうか。成熟社会の訪れを示しているのでしょうか? サービス産業化の進んだ社会だからこそこんな考え方がありえるのでは? しかし待てよ。

寅はおそらくキリギリスの生き方には賛成しないんじゃないでしょうか。やはり博のようないわゆる世間的に「まともな暮らし」に憧れているわけだから。しかし一方で、寅さんの意志とは関係なく、その存在そのものは現代的な意味でのキリギリスではないかとも思うのです。寅さんにしても「世間師」にしても漂泊していますから、定住する世間から見れば「まともな暮らし」には見えないのでしょう。しかし彼らは彼らなりに生きるためにちゃんと仕事はしています。それよりも彼らの存在は、世間の外に生きていることそのものに意義があるのではないでしょうか。世間の生き方や価値観から自由な存在として、また世間内と世間外(=異界)との境界を自由に行き来できる存在として、彼らにはそれなりの存在価値がある。その意味で私は、現在日本の閉塞状況が、この「異界」の縮小・消滅(=全体主義化、管理社会化、没個性化、非人間化!、カフカ的不条理化)とそれに伴って寅さんや世間師などの「異人」が存在しえなくなったことと深く関係しているのはないかと密かに疑っているのです。

 

2009-10-24

フィルム・ノワールFilm Noir

このところ古い映を続けて観た。WOWOWが特集で「フィルム・ノワールFilm Noir」(仏語で、暗黒映画)と呼ばれる一連の映画を放送した。1940年代前半から1950年代後期にかけて、主にアメリカで製作された犯罪映画で、影やコントラストを多用した色調やセットで撮影され、行き場のない閉塞感が作品全体を覆っている。夜間のロケーション撮影が多いのも特徴とされる。

「多くのフィルム・ノワールには、男を堕落させる「ファム・ファタールFemme fatale(運命の女、危険な女)」が登場する。また、登場人物の主な種別として、私立探偵、警官、判事、富裕層の市民、弁護士、ギャング、無法者などがあげられる。フィルム・ノワール以前の映画と大きく異なる点は、これらの登場人物が、職業、もしくは人格面で堕落しており、一筋縄ではいかないキャラクターとして描かれている点である。彼らは、シニカルな人生観や、閉塞感、悲観的な世界観に支配されている。登場人物相互間での裏切りや、無慈悲な仕打ち、支配欲などが描かれ、それに伴う殺人、主人公の破滅が、しばしば映画のストーリーの核となる。ストーリーの展開としては、完全に直線的な時系列で物語が語られることはまれであり、モノローグや回想などを使用して、物語が進行することが多い。」(Wikipediaより)



今回観たのは、古い順に、「飾窓の女The Woman in the Window」(1944)監督:フリッツ・ラング、「上海から来た女The Lady from Shanghai」(1948)監督兼主演:オーソン・ウェルズ、「ショックプルーフShockproof」(1949年)監督:ダグラス・サーク、「秘密調査員Undercover Man」(1949年)監督:ジョゼフ・H・ルイス、「大いなる夜The Big Night」(1951年)監督:ジョゼフ・ロージー、「キッスで殺せKiss Me Deadly」(1955年)監督:ロバート・オルドリッチ、「夕暮れのときNightfall」(1957年)監督:ジャック・ターナー。
(これとは別に、wowowでは近未来映画の金字塔「ブレードランナーBlade Runner」(1982年)監督:リドリー・スコットも先ごろ放送した。これもフィルム・ノワールの風合いがあり断然お勧めの映画である。)

白黒映画の肌触りがしっとりとこころを覆ってくれる至福の時間を味わうことが出来る。特徴としては、「一筋縄ではいかないキャラクター」というのはそのとおりで、二項対立的はものの見方はとらない。正義の味方と思いきや、社会の規範を飛び越えて欲望の虜になっていく、とか、悪逆非道な犯罪者かと思いきや、妹思いの兄だったり、とか、興味深い人間観が垣間見える。人間の本質というものが否応なく表出される「戦争」というものが時代背景にあることも考えれられる。お馬鹿のブッシュ・コイズミ式の単純な敵味方論的「勧善懲悪」ものでない「大人」の味わいが、私の好みに合うんだなぁ。



フィルム・ノワールの光と影エスクァイアマガジンジャパン


2009-10-14

月曜日に乾杯!

フランス映画「月曜日に乾杯!」を観た。

しがない中年のおっさんが家族にも言わず、工場を無断で休んで、旅に出る話。ヴェネツィアの町並みが素晴らしい。かみさんは夫から来る絵葉書は全部見る前に断固として破る。その間、村の生活はいつもどおり、淡々と家族の生活も続く。ある日ふらっと帰宅するおっさん。コーヒーを入れるかみさん。「屋根に雨漏りがするから直してよ」「そうかい、雨漏りが・・・」でまた元の日常生活にもどる。同居のばあさんが「長かったね」「いや、あっという間だったよ」。ちょっと日常性から逸脱してみたかったおっさんの気もちが涙が出るほど分かる。しみじみとしたいい映画だったなぁ。

おまけ。屋根の上からのヴェネツィアの眺め。サン・マルコの塔や、
はるかジュデッカ運河を望み、対岸のサン・ジョルジョ教会や大運河 Canale Grande と交わるところ、サルーテ教会のたたずまい。美しーーーい!ヴェネツィア地図を広げて、んっ!ここからの眺めだと悦に入っている。

「これが聖なる息吹だ。この町にあふれている。この精霊がマルコ・ポーロに旅をさせ、ティツィアーノにあの絵を描かせたんだ。観光客では感じられないものだ。君へのプレゼントだよ」

読書計画!

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)

怠ける権利 (平凡社ライブラリー)