ピエトロ・ジェルミ監督・主演「刑事」(1959年、イタリア)はそのことを教えてくれる格好の映画だ。まずは「シナリオ」を褒めねばならない。殺人事件の捜査の過程に美しい面も醜悪な面も含めてさまざまな人間模様が明らかにされていく。それが収斂し事件は解決するかに見えた。ところがそこに思わぬどんでん返しが待っている。シナリオの勝利だ。ムダな場面が一つもない。
最初、観客も無責任な野次馬の一人だ。次第に事件の真相を追う刑事たちに感情移入していく。そこには刑事が暴いていく偽善的な人間たちの赤裸々な姿がある。正義感が観るものを怒りに駆り立てる。その感情が頂点に達したとき、観客は思わぬ袋小路に直面し、感情のやり場に困ることになる。振り出しに戻ってしまうのだ。やり場のない鬱屈した感情。しかし、その感情は一気に捌け口を見出すことになる。そして今までの自分たちの感情にある種の後ろめたさを感じなければならない。犯人であるべき人間が実は犯人ではなく、犯人であってはならない人間が実は犯人であったという苦い感情が湧く。その後ろめたさが社会の不条理に対するやるせなさと一組の男女への同情となって開放されることになる。
シナリオのできも素晴らしいが、それにも増して演出のテンポが頗る軽快である。監督のピエトロ・ジェルミが主演の刑事役を演じる。この刑事のてきぱきとことを処理していく手際そのものが映画のテンポとシンクロしているのである。
それから何と言っても、ピエトロ・ジェルミの演技だ。飄々としていながら部下に的確に指示をだし、猛烈に厳しい態度をとりながらも人への思いやりを感じさせる。正義感に貫かれた行動が身上。それでいて滑稽味もあるという複雑な役どころだが、ジェルミの人格があっての深みのある魅力的な人物象となった。
最後のシーン。「アモーレ・アモーレ・アモーレ・アモレミオ~」(「死ぬほど愛してSinno' me moro」作曲:カルロ・ルスティケッリ)の哀切な主題歌とともに、クラウディア・カルディナーレの姿が目に焼きつく。