2009-11-09

映画は「監督」だ。

1.(F・1)タイトルバック
一本道。
左右は一面の桑畑。
遠く小さな人影―それがだんだん近づく―この映画の主人公の浪人である。

―タイトル終わる―                                  

これは黒澤明監督「用心棒」(1961年)の冒頭シーンの「シナリオ」(脚本:菊島隆三・黒澤明)の記述である(キネマ旬報4月号増刊「黒沢明〈その作品と顔〉」(1963年))。先に「映画は『シナリオ』だ。」を書いたが、しかし、今回は「映画は『監督』だ」の例を示したいと思う。よいシナリオも凡庸な監督に掛かった日にはどうしようもない作品になってしまうだろう。逆に、能力のある監督にめぐり合えば見違える作品が出来上がるということも、また真実である。多言を要しない。実際にご覧いただこう。一つの例として、これだけの「シナリオ」が「天才」に掛かるとどう変貌するか。冒頭から如何に観客のこころを鷲掴みにするか。如何に主人公の性格から物語りの舞台までを要領よく紹介しているか。それによって如何に観客が彼への好奇心を刺激され、これから始まる物語に対するわくわくするような期待感を抱かせられるか。この映画の眼目は、この主人公を如何に魅力的に見せるかに掛かっていた。黒澤監督の「映画術」の一端が窺える名場面である。




この「タイトルバック」がワンシーン・ワンカットで撮られていることに注目。およそ三分足らずの間、カメラはじっと眼を凝らして主人公の後姿を追っている。この時、カメラはまさに「観客の眼」になったのである。因みに、カメラは名匠宮川一夫。そして佐藤勝の音楽。我々は、映画は時間の芸術である、ということを典型的な形で確認できるであろう。至福の時間である。


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