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2010-10-06

歴史を頭に刻むということ ~ 堀田善衛に学ぶ

八戸の友人の母親はそう言えば津軽出身だと記憶している。北海道旅行の帰りに苫小牧からフェリーで八戸に着いた。彼の家に泊まったときのこと。彼の母親が電話で話してる言葉が全く分からなかった。友人曰く、あれでも標準語を話そうとして無理しているんだよと。ははあ~なるほど。それがかれこれ30年以上前の経験だった。去年、弘前で飲み屋で地元の客の話にも分からんてことは無かった。あれはよそゆきの言葉だったのか、それとも津軽弁の衰退の現れなのか?

沖縄でも若い人は沖縄語をあまり話さない。爺ちゃん婆ちゃんだけになりつつあるらしい。何年か前に沖縄に行ったときにも、そんな印象をもった。これも画一教育の成果だろう!北海道旅行の途中、青森の飲み屋で一杯やったときのこと、漁師風の男たちが多かったが、単語一つ解らず、すくなからずカルチャーショックを受けた。それは強烈な経験だった。

それに比べると、最近文化の味が薄くなっていないか。画一的なTVと教育の悪影響だろうか。TVに出てくる田舎のおっちゃんすらNHK風標準語を話している。これからは今までとは真逆のベクトルが必要だろう。他所から来た人間には理解できない津軽弁のニュース番組があったら面白いだろうなぁ。宮里を応援する沖縄語のゴルフ生中継とか!大阪弁による海外の特派員報告、京都弁での国会生中継などなど。そうなるとNHK語がさぞかし生活感のない、薄っぺらな言葉に聞こえるだろう。これから百年かけてそんな日本になっているといいなあと妄想している。

その延長線上で、当然外国語も自然に飛び交っている日本!昔少し勉強したインドの多様性に圧倒された経験がある。憲法に指定された言語だけで22!2000の方言!バイリンガルは当たり前。生活の必要から隣の部落と言葉が異なる意思の疎通を図るのは命が掛かってるから!

日本ならば奈良時代の奈良が外国語が飛び交う国際都市だった。例えばペルシャ語等が聞けたはずだ。堀田善衛が修学旅行で奈良へ行った時の感想に、なあんだ中国じゃねぇか、というのがある。どこかで書いていた。この感覚が凄いと思う。国粋主義と対極にある心性!

彼の家は没落した北前船の船主。小さい時からロシア人の船員などが出入りし、ろくでもない奴が沢山いたらしい。そんな中で育った彼には外国人への偏見が全くない。日本人を普通に見るように、当たり前に対等な目線で外国人を見ることができた。彼の祖母は自由に英語を話していたという。自身英語教育のため宣教師の家に下宿させられていた。そこの上さんは大変な癇癪持ちで、かつ偉丈夫で力持ちときていた。定期的にヒステリーを起こしピアノをひっくり返す勢いだったそうだ。だから彼は、外国人に対する崇拝や排斥感情から免れたのだろう。

堀田の「上海にて」(集英社文庫)は必読だ、中国と普通に付き合うために。それと桑原武夫と加藤周一共著「中国とつきあう方法」。国際人の堀田と加藤周一共著「ヨーロッパ二つの窓トレドとヴェネチア」(朝日文芸文庫)も楽しい。八戸、津軽から上海、インド、スペイン、イタリアまで。思えば遠くへ来たもんだ。私にとって、堀田と加藤にどれだけ学んだか知れない!

堀田でもう一つ想い出したことがある。同じく「上海にて」だったか、他の本だったか忘れたが、彼が中国から日本に帰って来たときの印象。日本では1946年当時、並木路子の「りんごの唄」が流行っていた。あれだけの戦争の惨禍に見舞われながら、何もなかったかのような日本人の能天気さに絶望した。革命が起こっても不思議ではない歴史的な惨状を今の今まで経験してきたはずなのにと。そんな趣旨の文章だったと思う。当然中国人との比較の上での話しだっただろう。

敗戦前後の中国を経験した堀田は、戦後の生き方考え方にそれは決定的だったと書いていた。中国人は歴史的にものを考える。今まで敵国人でさんざっぱら虐げられてきた日本人に対して、勝った今、何故中国人は仕返しをしないのかと、下宿屋のお上かなんかにたずねたそうだ。その時のお上さんの応えは、今は敗戦国の人間だけれども、日本人は何年かすればまた必ず中国にやって来る。だから、今まで敵国人だったからという理由で今度は日本人を迫害したりはしないのだと。特別教養があるとも思えない普通の中国人であるお上さんの頭にも、中国のさまざまな歴史的変遷の経験が深く刻み込まれていることに堀田は感心している。

それと対照的に、歴史を忘却したように振舞う日本人の能天気さ。これに堀田は深く絶望していた。その延長線上に現政権の中国に対する振る舞いがあり、非歴史的な能天気さがあることは間違いない。グローバル化する世界で生きていかなければ我々は、堀田の複眼的思考から学ばなければならない、と思う。


2009-11-04

圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ~秩父事件

もう何年前のことになるのか、月に何回か正丸峠をくぐって秩父へ向かった、「秩父」をまるごと学ぶために。秩父の歴史から食生活まで。自分の手でこねてつくった饂飩を茹で、そこに鰹節と葱に醤油をかけただけだったが、頗る美味かった。そして、峠を訪ねた。「圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ」というスローガンを掲げて圧制を敷く中央政府に闘いを挑み敗れた「秩父困民党」が越えていった峠。その日、峠は「紅葉に新雪が美しい日」であったという。125年前のことである。

 「人びとが十石峠を越えたのは、明治十七年十一月七日、紅葉に新雪が美しい日のことである。秩父山塊の渓谷を舞台に蜂起し、大宮郷を「無政の郷」とし、屋久などの峠を越えて神流川筋を山中谷に至り、さらに信州佐久に進出した秩父困民党の農民たちがそれだ。
十一月一日、下吉田村椋神社境内に集結した困民党の勢力は三千人にも達したという。高利貸への負債据置・年賦返済、減租、さらには、貧民を助け家禄財産を平均する「世ならし」を目指した農民たちの直接行動であった。「おそれながら天朝様に敵対するから加勢しろ」という思想まで抱えこんだ農民蜂起は、竹槍、刀剣、猟銃をかまえて東京憲兵隊、東京鎮台兵、警官隊との交戦を重ね、十一月四日、農民軍の本陣は解体する。
しかし、本陣の幹部集団の崩壊をのりこえて、関東の平野部へ進出しようとした五、六百名の一隊と、残存の農民たちの組織を改めて信州へ進出した二百名ほどの一隊があった。前者は、四日夜、金屋で東京鎮台第三大隊と渡り合い、十名の戦死者を出して敗れる。後者は、四日夜、上吉田で隊をたて直し、五日には、日尾、藤倉から尾久峠を越えて上州に入り、青梨から神ヶ原(かがはら)に達し、六日には、自警団との交戦や焼打ち、オルグを重ねつつ神流川渓谷の山中村を白井まで進み、七日に十石峠を越えて信州に入る。八日、大日向村から東馬流(ひがしまながし)にまで進んでオルグ、打ちこわしを行なって四、五百人にふくらんだ農民軍は、翌九日未明、高崎鎮台兵の攻撃を受けて八ヶ岳山麓野辺山原で解体してしまう。
国会開設と自由民権を謳う自由党が解党式を挙げたのは、同年十月二十九日、秩父困民党の農民たちが蜂起する三日前のことであった。「まぼろしの革命党」のイデオロギーを農民の立場でとらえ直した、自由民権運動史上、「最後にして最高の形態」をもつ秩父事件がこれである。」(布川欣一著「峠の地蔵」・池内紀編集「ちいさな桃源郷」(幻戯書房)所収より)

ここで秩父事件について詳細に語ることはできないが、参考に、「困民党」が掲げた軍律および目標(「秩父事件研究顕彰協議会」ホームページより)と中国人民解放軍の前身である「八路軍」の有名な「三大紀律八項注意」(フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」より)を掲げておく。毛沢東による人民戦争理論(「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」)に基づく軍隊の軍律が、その精神において「困民党」のそれと相似していることは興味深い。おそらくこれは単なる偶然ではないだろう。

★困民党軍律5ヶ条★
第1条.私ニ金円ヲ掠奪スル者ハ斬ニ処ス
第2条.女色ヲ侵ス者ハ斬
第3条.酒宴ヲナシタル者ハ斬
第4条.私ノ遺恨ヲ以テ放火ソノ他乱暴ヲナシタル者ハ斬
第5条.指揮官ノ命令ニ違反シ私ニ事ヲナシタル者ハ斬
★困民党の目標★
一.高利貸のため身代を傾ける者多しよって債主に迫り10カ年据置40カ年賦に延期を乞うこと
一.学校費を省く為3カ年間休校を県庁に迫ること
一.雑収税の減少を内務省に迫ること
一.村費の減少を村吏に迫ること

三大紀律:
一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ);
不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな);
一切繳獲要帰公(獲得したものはすべて中央に提出せよ)。
八項注意:
説話和気(話し方は丁寧に);
買売公平(売買はごまかしなく);
借東西要還(借りたものは返せ);
損壊東西要賠償(壊したものは弁償しろ);
不打人罵人(人を罵るな);
不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな);
不調戯婦女(婦女をからかうな);
不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)。


田代栄助(総理)


井上傳蔵(会計長)

ここにも「忘れられた日本人」がいる。秩父困民党総裁、田代栄作(1834年(天保5年)~1885年(明治18年))、同会計長、井上傳蔵(1854年(安政元年)~1917年(大正7年))。明治維新以来初めての民意による政権交代が実現した今、こうした史実を振り返ることもムダではなかろう、と思う。

秩父事件研究顕彰協議会
井上幸治著「秩父事件―自由民権期の農民蜂起」(中公新書)
中澤市朗著「自由民権の民衆像」(新日本新書)
秩父事件研究顕彰協議会編集「秩父事件―圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ」(新日本出版社)
秩父事件研究顕彰協議会編集「ガイドブック秩父事件」(新日本Guide Book)
浅見好夫著「秩父事件史」(言叢社)
井出孫六著「峠の廃道―秩父困民党紀行」(平凡社ライブラリー)
井出孫六著「秩父困民党群像」(新人物往来社)
池内紀編集「ちいさな桃源郷」(幻戯書房)                              


2009-10-22

生きている問い

「イル・サンジェルマンの散歩道」より引用 2009. 10. 21


ギィ・モケの別れの手紙La lettre d'adieu de Guy Môquet

68年前の10月22日、ひとりの17歳の青年がレジスタンスに殉じ、その短い生涯を終えました。

鉄道員であり共産党の代議士であった父親が、1939年にアルジェリアの強制収容所に送られたとき、当時16歳であったギィ・モケは、共産党の青年組織に加わりました。1年後パリで非合法のビラを撒いていたときに逮捕され、ロワール・アキテーヌ県にあるシャトーブリアンの収容所に送られました。

1941年10月22日ギィ・モケは、ドイツ軍将校の殺害の報復として、収容所に入れられていた他の26人とともに銃殺されました。死を前にして、一通の手紙を両親に送りました。今日彼の名前は、パリの地下鉄の駅そして数多くの街路に見られます。

僕の大切なお母さん、
僕の大好きな、可愛い弟、
僕の愛するお父さん、

僕はこれから死ぬのです!僕があなたたちに、なかでもお母さん、あなたにお願いがあります。それは毅然としていてほしいということです。僕は毅然としています。そして僕の前に殺された人たちと同じくらい毅然としていたいのです。もちろん、僕は生きたかった。でも僕が心から願うことは、僕の死が何かに役立ってほしいということです。僕にはジャンに接吻する時間がありません。僕のふたりの弟、ロジェとリノには接吻しました。本当のことを言えば、それができないのです。ああ!僕の身の回りのものすべてが、お母さんに送られることを望みます。それはセルジュに役立つでしょうから。僕はセルジュが、ある日それを持つことを誇りに思うことを願っています。お父さん、あなたに。もし僕がお母さんを悲しませたと同じくらいお父さんを悲しませたとしたら、僕は最後にもう一度あなたに別れの挨拶をします。あなたが僕に指し示した道を、僕は最善を尽くして歩いてきたということをわかってください。
最後の別れを、僕のすべての友達に、僕が大好きな弟に。(立派な)男になるように、しっかり勉強をするように。17年と半年、僕の人生は短かった。 僕は叔父さん、ミッシェルと一緒に死んでいく。お母さん、僕があなたに望むのは、僕があなたに約束して欲しいのは、気をしっかりと持つこと、そして悲しみをのりこえることです。

もうこれ以上書けません。僕はあなたたちみんなから、おかあさん、あなたから、セルジュから、お父さんから、僕の子どもの心にあるすべてを込めてあなたたちに接吻をしながら、僕は去って行きます。勇気を出して!

あなたたちの愛した、あなたたちのギィより。
ギィ

最後に。あなたたちすべてが、わたしたちに、これから死んで行く27人にふさわしい存在であり続けてください!

(引用終了)

加藤周一は戦後すぐに「新しき星菫派に就いて」を書き、数年後に「抵抗の詩人たち」を書いた。戦時中に大日本帝国では「抵抗運動」はほとんどなく、フランス共和国では執拗な「抵抗運動」が行なわれた。この彼我の差は何か?現在もその問いは生きつづけている。