巫女
「米朝ばなし」を読んでいたら、大阪に大正時代まで「巫女」が商売をしていたという。生者や亡者を呼び出して口寄せをした。明治に禁止されたが、大正まで残っていたことが面白い。「巫女町」という地図にはない地名があった。こんな話に好奇心が強く刺激される。人間の強い情念を感じるからか。人間は意識の世界、理性の支配する世界にばかり生きているわけではない。
中山太郎著「日本巫女史」(1930)に、「明治四十四年に、私が在阪中の余暇を偸み、天王寺の巫女町(ミコマチ)を訪れた時は、まだ三軒ほど黒格子独特の暖簾を下げた家があったので、呪術を頼んで見たが、禁制だと称して口寄せはしてくれなかった。…天王寺に就いては、「浪花百事談」巻九に、『梓みこ数軒住ける地なり、其家みな格子造りにて、表の入口の外には、長三尺計りの三巾暖簾を木綿にて製し、それに大なる紋を染ぬき、仮字にてくろがしら何々、やぶのはた何々など、巫の名をも染ぬき、入口の上には注連縄を張る、黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり云々。』とある。格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろうが、遂にそれが黒格子と云えば、巫女(ミコ)と思われるまでの俚称となったのである。」とある。
また、巫女の仕事は、「一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子(イチゴ)の身に憑かからせて物語りをする(俗にこれを「死口(シニクチ)」という)か、これに反して、遠隔の地にある者の生霊を喚び寄せて物語りする(俗にこれを「生口(イキクチ)」という)こと」が第一。ここで面白いのは、彼女たちは、死霊を呼び出すだけでなく、生霊も呼び出すこともあること。口寄せだけでなく、「二、依頼者の一年間(又は一代)の吉凶を判断する(俗にこれを「神口(カミクチ)」とも「荒神占(コウジンウラナイ)」ともいう)こと。三、病気その他の悪事災難を治癒させ、又は祓除すること。四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること。五、紛失物、その他走り人などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること」をしていたという。
これでもこの本の筆者は、「市子(イチゴ)の呪術も、当代に入るとその範囲も狭められて来て、専ら民間の―それも少数の愚夫愚婦を相手にするようになり、国家の大事とか、戦争の進退とかいう、注意すべき問題に全く与ることは出来なくなってしまい」と書いている。なるほど、自然を畏怖の対象から、利用する対象に変遷していきたことと平行して、巫女の役割も限定されてきたことが伺える。恐山のイタコや沖縄のユタが、今でも存在すること自体が奇跡のような気がする。近代化を至上とする政府が「巫女」の存在を抹殺しようとしていたことが伺えてそれはそれで興味深い。しかし、巫女の存在への需要が今では全く無くなったのかというと、そうではないのではないか、と思っている。