2010-11-12

「小野小町九相図」から考える

京都市の浄土宗安楽寺に「小野小町九相図」がある。美人の誉れ高い小野小町が死んで腐乱し、最後は土に返るさまを見事なリアルさで描いた掛け軸だ。本物は未見だが、ネットで概要を見ることができる。


「九相図」というテーマではこの他にも「檀林皇后九相観」(桂光山西福寺、京都市)や「人道不浄相図」(紫雲山聖衆来迎寺、滋賀県)」など、いくつも知れれている。だからテーマとしては一般的なものだったのであろう。

私はこういうのが好きで機会あるごとに見直すのだが、驚くべきことは、そのリアルさである。おそらく当時は、日常的に人体が腐乱していくさまが街角や川原などで観察できたのであろう。実に正確だ。

死体が黒ずみ腹が膨れ、血がにじみ出る。次に脂肪がどろどろになって流れ出す。しぼんだ死体から肋骨などの骨が外に露出してくる。犬や鳥などが肉を食い散らす。最後は骨だけになる。その骨も辺りに散乱してい原型をとどめなくなるというもの。

仏教の「無常観」をあらわして「仏教画」とされる。しかし、ここまでリアルに表現したのは、その目的をはるかに超える。なんらかの強い意志があったと想像される。それは事実を冷徹に観察して、書き留めておきたいという欲望である。その意志は直接的には仏教とはなんの関係もない。

環境を正確に把握したいという人間としての、さらに言ってしまえば、生物としての本源的な欲求ではないかと思う。江戸の絵師に「若冲」という人がいるが、この人の絵を想起する。同じような強い欲望を感じることができるから。また、写真家の藤原新也が初期のインド紀行で掲載した、ガンジスの中洲で犬が死体を食う場面を写した写真。「メメント・モリ」に収録されたその写真には、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」ということばが添えられていた。


藤原新也の「印度放浪」(朝日文庫)を書庫から引っ張り出してきた。紙の質が悪いので大分日に焼けていて、しかもかさかさと貧相な音がする。ぱらぱらめくってみる。

「人間の身体(からだ)を見ていて神々しいと思ったのは、一っぺん沈んで浮かんできた水葬体だね。水葬にしていったん沈むんだけど、沈んだあと底につかないのはそのまま浮かばないで流れる。底についたのは必ず浮かんでくるんだ。そうやって浮かんできた時の顔とか身体(からだ)というのは、不純なものがいっさい流れたような美しいものなんだね。半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある、それが二三日経つとだんだん膨らんできて、中の血管の血がバーッと表に出て、まるで不動明王や五大明王みたいに赤黒くなる。それからまた血が引いて漂白されたようになって行く。水に投げられたひとつの死体(しかばね)をずーっと見ていると、人間のもっているすべてが見えるよ。日本でも死ぬ時に、これは単なる比喩的な言いまわしだろうけどさ、死ぬときに一回苦しんだか、二回苦しんだか、三回苦しんだかで、その人の生前にもっている業みたいなものが出るということを言うじゃない。それとは違うけど、水葬死体も人間のもっている生前のことを全部見せてくれるような気がするね。」

「小野小町九相図」と同じことが書かれていることに驚く。違いは、水葬体の一瞬の間の美しさを藤原が発見していることと業に言及していること。しかし、人間のもっているものの全てが見えるような気がするという部分は、おそらく「九相図」を描いた絵師も感じたことではなかったか、と想像する。

藤原新也の書いたものをそのときどきに読んできた。初めて読んだのは「東京漂流」(1983)ではなかったか。この書には本当に衝撃を受けた。バット殺人事件現場、新興住宅地の中のその家の写真がその中にあったと思う。非人間化、管理化されていく日本というものを見せ付けられた衝撃だった。


その後に「印度放浪」(1972)へと彼の著作を遡ったような気がする。文庫化したときの1984年当時のあとがきで、次のように書いている。

「改めて気づいたことは、この本の率直さが、近代化され、管理化された日本に対するアンチテーゼとしての力を失っていないばかりか、この十年の日本の状況進化に伴って、より一層明確な視点を与えられているということであった。」

さらに四半世紀が経過した現在の日本の状況は、管理化が行き着くところまで来た感じがする。どこの政党が政府を形成しているといったレベルをはるかに超えている。全く別のフェーズに入ったと言えるかもしれない。その意味でも日本文明の将来が決まる重大な岐路が来ているのだろう。

非人間化、非個人化、管理化などと言われる。それを国民が自ら求めているようにすら見える。たとえば老後や医療を国家に託すということはそれを意味するだろう。それを拒否できるか?それとも別の手法があるのか?国家ではなく、社会が担うという考え方がある。「新しい公共」と言う概念・考え方がその一つだとされる。どうなるのだろうか。個人の管理化、非人間化をどう回避していくのか、それがはたしてできるのか?まだよく見えない。

藤原新也を改めて読む意味は大いにあるだろうと思う。


2010-11-03

料理人ジェイミー・オリヴァーJamie Oliverの冒険

Jamie Oliver
ジェイミー・オリヴァー(Jamie Oliver, 1975年-)という英国の有名な料理人がいる。彼が英国の学校給食に挑んだドキュメンタリー・シリーズ(ジェイミー・オリヴァーの給食革命!Jamie's School Dinners)を見た。民営化によって恐ろしいジャンク・フードに犯された給食の実態に愕然することから始まる。調理師との軋轢や子どもたちの拒否反応に四苦八苦、失敗を繰り返しながら改善に孤軍奮闘する様を記録したフィルム。


凄いの一言。給食の酷さと彼のエネルギーに。ジャンク・フードの怖さはそれに舌が「洗脳」されると他のものを受け付けなくなること。どっかの国民が「従米」に「洗脳」されている事態を想起してしまった。中国の子どもをマクドナルドなんかのジャンク・フード屋が「洗脳」し始めている。


もう一つ、ジェイミーが本物を食べさせることへの情熱に頭がさがる。子どもたちと実際に畑に行き、野菜を収穫し、自分たちで料理して食べるという過程を通じて、野菜を受け付けなかった子どもがアスパラガスが美味しいと食べるようになる瞬間の感動。

しかしそれだけではない、それを子どもが美味しいと食べてくれたときの調理師の喜び!それまでは出来合いのジャンク・フードをただ暖めていただけだった彼女たちが料理人としての本当の喜びを味わうことで改善へのモチベーションを高めるジェイミーの努力に敬服。こんなよい番組作りに努力するよう、マスゴミを「改善」しなければならない日本の現実の壁の高さに今一度愕然としている


WOWOWでの視聴だが、他にイタリアの食文化に触れた同じシリーズ(ジェイミー・オリヴァーのイタリアに魅せられてJamie's Great Escape)も放送している。これも面白い。食材の豊富さの違いと食文化の違いの相克と和解が見られる。異文化接触のケースとしても興味津々の内容だった。相変わらずチャレンジ精神旺盛なジェイミーの姿勢に感服した次第。因みに、食材豊富なイタリアはシチリアにもマクドナルドが進出しているようだが、地元には見向きをされていないという。慶賀。

まだ、シリーズは続く。乞うご期待だ。


本シリーズの動画をネットで視聴できるようだ。英語だが。

近江八景

桂米朝師の「米朝ばなし」を読みながらそこに登場する落語をひとつひとつ聴いていくのが楽しい。


「近江八景」。「人を騙します」と看板を掲げて商売している女郎に入れあげてるアホな男が八卦見に占ってもらうといういたってばかばかしい噺。しかし、そんな噺でも、そこは上方、粋なのは落ちに「近江八景」を読み込むところ。


近江八景とは、①石山秋月[いしやまのしゅうげつ]-石山寺、②勢多(瀬田)夕照[せたのせきしょう]-瀬田の唐橋、③粟津晴嵐[あわづのせいらん]-粟津原、④矢橋帰帆[やばせのきはん]-矢橋、⑤三井晩鐘[みいのばんしょう]-三井寺(園城寺)、⑥唐崎夜雨[からさきのやう]-唐崎神社、⑦堅田落雁[かたたのらくがん]-浮御堂、⑧比良暮雪[ひらのぼせつ]-比良山系。


八卦見がアホな男にあんたは騙されてと言うと、男は怒って女からの手紙を出して見せる。これが近江八景を読み込んだ立派過ぎる手紙(お客皆に配る宣伝ビラですな!)。


『恋しき君の面影を、しばしが程は見い(三井)もせで、文の矢ばせ(橋)の通い路や、心かただ(堅田)の雁(かり)ならで、我れからさき(唐崎)に夜の雨、濡れて乾かぬ比良の雪、瀬田の夕べと打ち解けて、堅き心はいしやま(石山)の、月も隠るる恋の闇、会わず(粟津)に暮らす我が思い、不憫と察しあるならば、また来る春に近江路や、八つの景色に戯れて、書き送りまいらせそろ、かしく」』


それを見て八卦見が、『なるほど、この文を表で判断すれば、最初、さきの女が比良の暮雪ほど白粉(おしろい)を塗り立てたのを、お前が一目みい(三井)寺より、我が持ち物にせんものと、心矢ばせ(橋)に早って唐崎の夜の雨と濡れかかっても、さきの女は石山のあき(秋)の月じゃゆえ、文の便りも片便り(堅田)。それにお前の気がソワソワと浮御堂。この女も根が道楽(落)雁の強い女じゃゆえ、とても世帯(瀬田)は持ちかねる。こりゃいっそ会わず(粟津)の晴嵐としなさい。』、男『あぁさよか、おおきありがとぉ。どぉも、さいなら』、八卦見『こりゃこりゃ、見料を置いていかんか。』、男『アホらしぃ。近江八景に膳所(ぜぜ=銭)は要りまへんのじゃ。』

昔の人は「教養」がありましたな。それにしても、よくある噺として、アホな男に自分の姿を見て共感しながらも、そんな自分を「アホ」な奴と笑い飛ばす、しかも、そんな男に「世間の常識」で意見する「野暮」な「教養人」である八卦見を、「客を怒らせる商売の下手な野郎だ!」と、あっさり蹴散らすアホな男に共感を寄せ、結局最後は、したり顔の「教養」や「世間の常識」よりも、そのアホな男に軍配を挙げてしまう「落語」を演じさせて、それに拍手喝采する観客とは、いやはや、まったくもって「大人」ですなぁ、と感心する。


歌川広重「近江八景」


石山秋月



勢多(瀬田)夕照



粟津晴嵐



矢橋帰帆



三井晩鐘



唐崎夜雨



堅田落雁



比良暮雪
構図と色彩の感覚、美学の完成度は恐るべし。

桂米朝 「矢橋船~東の旅(伊勢詣り)より」

桂米朝で「矢橋船~東の旅(伊勢詣り)より」

…◆久助、みなさん方の話聞ぃてると面白い。この景色を見ながら一杯やりたいが、お燗は?▲へッ、ちゃ~んと今火がおこりました。いや、お芝居に持って行く手焙り(てあぶり)でんねやがな、まさか船ん中に大きなカンテキは持ち込まれへんさかいな、この手焙りの中へ船に乗る前にちゃ~んと火を仕込みましてな、最前からこぉやってると、今真っ赤にいこってきましたんで、へぇ。

▲酒はなぁ、草津の酒屋で一番上等ちゅうのん詰めさしとりま、一升。肴はこの、鮒の飴煮(あめだき)やとか小魚の煮しめとか…◆結構じゃ。ほな早いこと▲へッ…、えらいことした◆どぉした?▲肝心のあんた、燗徳利を忘れてきましたがな◆これッ、燗徳利忘れたら火がでけても何にもならんじゃないかいな。

えらいことしたなぁ…、冷やで呑んでもらえまへんか?◆そら何を言ぅんじゃ、わしゃ冷や酒呑んだらじきにお腹が下るじゃろ、で、わざわざ火の用意をさしたぁんのに。これではどぉにもならんやないかいな困ったなぁ。

★もし、もぉし▲へ?★燗徳利、貸したげまひょか▲おおきに、あんさん燗徳利なんか持って乗ってなはる?★いや、燗徳利は持ってまへんねけどな。代わりになるもんがおまんねん▲え?★代わりになるもんがおすねん▲「代わりになるもんがおす」て、何んでんねん?★これどぉです…▲それ何でんねん?

尿瓶です▲へ?★シビンです▲シビンて、あのシビンでっかいな?★尿瓶にあのシビンもこのシビンもおへんがな。あのシビンどすがな▲こんなもんであんた、お酒の燗ができますかいな★これあんた、さらどっせ▲何ぼさらでもなぁ、尿瓶に…

★けどあんた、燗徳利なかったら、一升瓶をその小さな手あぶりの上へ乗せて、向こぉへ船が着くまでとてもお燗はつきますかいな。このシビン肉が薄い、で、ちょっとだけお酒を入れて乗せといたら、見事にお燗がつきますがな▲そらそやけど、どぉもシビン酒ちゅうのわ…

◆久助、それお借り申せ▲いや、旦那。よろしぃか?◆旅の空の、こら趣向じゃ。面白いなぁそれ、お礼を言ぅて使わしてもらい▲あんたも変わってなはるなぁ、ほならこれ使わしてもろてもよろしぃ?★どぉぞどぉぞ、使ことくなはれ。いや、うち年寄が居るんでな、いま草津でヒョッと見たら頃合いのシビンがあったさかい、まだ使こてないさかい綺麗ぇなもんですわ。

まぁ綺麗ぇなもんには…、なるほどまだ中にワラが入ってまんなぁ、ほなちょっと洗わしてもらいまひょかなぁもったいないことするけど、ちょっとお酒入れて…、ほなら旦那、シビン酒よろしぃか?◆「シビン酒」てなこと、わざわざ断らんかてえぇ。

せやけどあんた、おかしな具合やで。このシビンへ突っ込むもんいぅたら、たいがい相場が決まってますわなぁ。一升徳利から…、やなんて、なるほど…。しかし何でんなぁ、手あぶりの上へシビン乗せてこぉやってると、酒の燗してんのやら病人の看病してんのやら分からん◆要らんこと言ぃなはんな。

▲ぼんやりと、つかってきたよぉな具合でっせ◆ん、あんまり熱せぇでもえぇがなぁ。肴は近江の鮒か、結構けっこぉ。あのな、ここにお茶を飲んだ湯のみがあるで、これでいただきます。あんまり熱ならん方がえぇさかい▲あぁさよか、ほなボチボチ。ちょっといっぺん味見てみまひょかな、いかがなもんで…。うわぁ~ッ、色がよぉ似てるしなぁ、新酒やとみえてえらい泡。

要らんこと言ぃないな。酒てな気分のもんやさかい横手からゴジャゴジャ言われたら、どもならん…(クゥクゥクゥ~)上燗、上燗。いやぁ~ッ、お酒もなかなか結構じゃ。こりゃ風流なシビン酒、こら一生の想い出じゃわい(クゥクゥクゥ~)

◆こりゃ久助、今のな、このお借りしたところへちょっとお振る舞いせんかい▲あぁなるほど…。えぇ~、ただいまどぉもおおきにありがとぉ。よろしかったら、お嫌いやなかったらひと口★あッさよか、えらい済んまへんなぁどぉも▲いえいえ、お大事のお道具を拝借しまして。

★嫌なこと言ぃなはんな「お大事のお道具」やなんて、いただきます。わたしもなぁ、毎晩(クゥクゥクゥクゥ~)結構やなぁこら、いや毎晩わたし晩酌やる方でやすけどなぁ、こんな上等のお酒なかなか呑めまへんで(クゥクゥクゥクゥ~)こんな結構なお酒よんでもらえるんやったらわたし、何べんでもお貸ししまっさかいないつでも言ぅとくなはれ▲そない再々こんなもんが要りますかいな。

わしらだけで呑んでんのも気詰まりな、ご近所のお方にちょっとずつお振る舞いしたらどぉじゃ▲そぉでんなぁ…、えぇ~、みなさん方お嫌やなかったらひと口どぉでやす。入れ物はこんなんでやすけど●いやぁ~、もぉえぇ匂いがするもんやさかい、最前から喉グビグビいぅとりまんねん。へぇ、湯のみはこっちにございます茶碗が、もぉこの方が大きぃさかい▲あぁさよか、ほなまぁ…

●こら結構やなぁ、頂戴いたします(クゥ)えぇお酒でやすわ■ほなわたしもお相伴にあずかります、えらい済んまへんなぁ…、どぉもおおきにいただきます▼おいッ、わしまだやで■あんた偉そぉにケンタイらしぃ言ぅたらあかんがな。これはな、あのお方がお振る舞いをしてくれたはんねやさかい。あんた「わしまだや」てな、そんなこと言ぃなはんな。

▼そぉかて、わしかてちゃんと乗り合い払ろたぁるがな一人前■船賃とこれとは別やねんさかい…、わけの分からん人が出て来ましたがな。まぁまぁ、そっちもよばれなはれ▼いぅ、いぅ、言ぅてよかった、言わなんだら当たらんとこやがな、離れたとこ座ってるさかい…、お前らばっかりよばれて、離れてるさかいな、いっぱい注いやでいっぱい注いでや、ホンマにもぉ…

▼ウッ、ゲッ!こんなションベン呑ましやがってッ!■これこれこれ、何を言ぃなはんねんあんた。入れもんはシビンやけど中身は結構なお酒▼何を言ぅてんねん、これ、これ、何が酒や。これションベンやないかい■そんなはずはないけど…●あんのぉ~ッ■戸板の病人が頭上げて何や言ぅてまっせ、何だんねん?

ひょっとしたら、それわたしの尿瓶と間違ごぉてはんのと違いまっしゃろか?■病人さんの尿瓶やがな、あんた草津の人やろ。おんなじ型やがな、ややこしぃとこ置いときないなホンマに…、あんた今呑んだん間違いなしにそらションベン▼そんな殺生な…、ちょっと酒おくれ■ほんだらまぁ、今のんこっち、これ、これ、これが酒。

▼こぉなったらもぉ二、三杯立て続けにいかなんだらアホらしぃて…、さっきはよぉ呑み込まなんだこっちゃホンマに■グッといけグッと▼ゲッ、ゲッ!これもションベン■何を言ぅてる、今のはこれ、これは酒▼ションベン臭いやないかいッ■そんな…、ホンにそぉやなぁ。

あんのぉ~ッ■また病人が何や言ぅてるで、どないした?●ひょっとしたら、わたし最前それの方へしたかも分からん■両方ともションベンになってもた、何をすんねん…、あんた二、三杯続けざまにいき▼アホなこと言え◆貴の毒な、気の毒な。冷やでよかったらこっちにまだありますでな、どぉぞ口直しに、口清めておくなされや。あぁ~、えらい騒ぎじゃったなぁ。…

まあ、こんな調子の船旅が続く…。上方ならではの遊山の道中噺。



巫女

「米朝ばなし」を読んでいたら、大阪に大正時代まで「巫女」が商売をしていたという。生者や亡者を呼び出して口寄せをした。明治に禁止されたが、大正まで残っていたことが面白い。「巫女町」という地図にはない地名があった。こんな話に好奇心が強く刺激される。人間の強い情念を感じるからか。人間は意識の世界、理性の支配する世界にばかり生きているわけではない。


中山太郎著「日本巫女史」(1930)に、「明治四十四年に、私が在阪中の余暇を偸み、天王寺の巫女町(ミコマチ)を訪れた時は、まだ三軒ほど黒格子独特の暖簾を下げた家があったので、呪術を頼んで見たが、禁制だと称して口寄せはしてくれなかった。…天王寺に就いては、「浪花百事談」巻九に、『梓みこ数軒住ける地なり、其家みな格子造りにて、表の入口の外には、長三尺計りの三巾暖簾を木綿にて製し、それに大なる紋を染ぬき、仮字にてくろがしら何々、やぶのはた何々など、巫の名をも染ぬき、入口の上には注連縄を張る、黒格子といへるは、格子を墨にて塗り、家の内の表の間には、何か祀りて薄暗くせり云々。』とある。格子を黒く塗り、家を薄暗くするのは、神がかりする為の便利から来ているのであろうが、遂にそれが黒格子と云えば、巫女(ミコ)と思われるまでの俚称となったのである。」とある。

また、巫女の仕事は、「一、口寄せと称する、死霊を冥界より喚び出して、市子(イチゴ)の身に憑かからせて物語りをする(俗にこれを「死口(シニクチ)」という)か、これに反して、遠隔の地にある者の生霊を喚び寄せて物語りする(俗にこれを「生口(イキクチ)」という)こと」が第一。ここで面白いのは、彼女たちは、死霊を呼び出すだけでなく、生霊も呼び出すこともあること。口寄せだけでなく、「二、依頼者の一年間(又は一代)の吉凶を判断する(俗にこれを「神口(カミクチ)」とも「荒神占(コウジンウラナイ)」ともいう)こと。三、病気その他の悪事災難を治癒させ、又は祓除すること。四、病気に適応する薬剤の名を神に問うて知らせること。五、紛失物、その他走り人などのあったとき、方角または出る出ないの予言をすること」をしていたという。



これでもこの本の筆者は、「市子(イチゴ)の呪術も、当代に入るとその範囲も狭められて来て、専ら民間の―それも少数の愚夫愚婦を相手にするようになり、国家の大事とか、戦争の進退とかいう、注意すべき問題に全く与ることは出来なくなってしまい」と書いている。なるほど、自然を畏怖の対象から、利用する対象に変遷していきたことと平行して、巫女の役割も限定されてきたことが伺える。恐山のイタコや沖縄のユタが、今でも存在すること自体が奇跡のような気がする。近代化を至上とする政府が「巫女」の存在を抹殺しようとしていたことが伺えてそれはそれで興味深い。しかし、巫女の存在への需要が今では全く無くなったのかというと、そうではないのではないか、と思っている。

落語の楽しみ

権威に対する庶民の反骨精神としたたかさは落語によく登場する。逆に権威の象徴としての武士は笑いの対象であることをやめない。今、政官財学報の面々を笑い飛ばすことが庶民にできているか? 上方落語「試し切り」の一節。乞食を試し切りしたと自慢げに話す武士A、新しい刀を手に入れたという武士B、それを聞いてそれがしもとでかけると、

■よきことをお知らせ申そぉ●何でござる?■実は身共も先般、新刀を買い求めましてな。どこかで試し斬りをしたいものじゃと、常に腰に帯して歩いておりました夕べ。朋友に誘われまして道頓堀界隈で一盞(いっさん)を傾けて、ほろ酔い機嫌もござったがな、道を取り違えて南の方へ出てしもぉた。■堺筋へまいりましてな、日本橋、この南詰めに乞食が一人、薦(こも)を被って味寝(うまい)をいたしておりました。あたりに人無きを確かめ、これ究竟(くっきょ~)の試しものと心得てズッ、刀を抜き放ちましてな「こりゃ、寝耳ながらによく承れ。その方、生きて甲斐ある命ならば、かかる無益な殺生はいたさんが、生きて甲斐無きその方の境涯、亡きあとの回向は必ず手厚く弔ぉてとらす。身が試しものとなれ…、南無阿弥陀仏」■パッと斬り付けますと確かな手応え。あとを拭うのもそこそこに逃げて帰りましたが、誰も見なんだと思う。これならば、今宵にも試してごらんになってはいかがでござる?●なるほど…、野臥(のぶ)せりの類とあらば、あとあとの詮議も厳しゅ~はござるまい。がしかし、前夜一人斬り殺されておる所へ今宵まいって、また寝ておる者がござろぉかな?■あのあたりは俗に申す長町裏なぞも近い、宿無しどもが入れ代わり立ち代わり塒(ねぐら)を求めてまいる所でござる。今宵も一人ぐらいは臥せっておるかと存ずる●しからば今宵…。ご他言はご無用でござる。
昔の侍っちゅうんは無茶なもんで、乞食の命なんか何ぁんとも思てしまへんねやなぁ。用意をして南へやってまいりました。もぉ夜が更けております。人通りは無い。来てみると、やっぱり薦を被って一人乞食が寝てる。
●ほほぉ、夜前ここにて一人(いちにん)斬り殺されておるに、また寝ておるとは、よくよく命冥加に離れしやつ…。こりゃ、寝耳ながらによく承れ。
その方、生きて甲斐ある命ならば、かかる無益な殺生はいたさんが、生きて甲斐無きその方の境涯、亡きあとの回向は必ず手厚く弔ぉてつかわす。身が試しものとなれっ。
バ~ッと斬り付けますと、乞食が薦をパ~ンと跳ねのけて……
▲どいつやい、毎晩まいばんどつきに来るのは?(【上方落語メモ第2集】その77「試し斬り」より)

庶民はどっこい生きている!

2010-10-21

渋江抽斎の妻・五百(いほ)

森鴎外著「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」。抽斎の妻の五百(いほ)。鴎外の記述で、この五百を語って生彩を帯びるのは、作者が五百に敬意と親愛の情を感じていたからであろう、と加藤さんは述べる。以下、加藤周一著「『渋江抽斎』について」より引用。

みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鴎外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。
作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。

刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。(森鴎外著『渋江抽斎』)

これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。

そぞろ読む中で出合った一場面。加藤さんの文章が鴎外の文章に負けていない!