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2010-10-21

渋江抽斎の妻・五百(いほ)

森鴎外著「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」。抽斎の妻の五百(いほ)。鴎外の記述で、この五百を語って生彩を帯びるのは、作者が五百に敬意と親愛の情を感じていたからであろう、と加藤さんは述べる。以下、加藤周一著「『渋江抽斎』について」より引用。

みずから進んで抽斎の妻に嫁し、思慮深く、好学心があり、しかも勇敢であった五百に鴎外は遂にみずから得なかった理想の妻の姿を見出したのではなかろうか。
作中もっとも劇的な場面の一つは、抽斎を脅迫する三人の侍を、五百が追い出した話である。三人が訪れたとき、五百は浴室にいた。三人は奥の間に通って、抽斎に金を要求し、容れられずとみるや、刀の柄(つか)に手をかけて、抽斎をかこんだ。そのにらみ合いの最中に、廊下に足音もせず、静かに障子が開く。

刀の柄に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は僅(わずか)に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜(くわ)えていた。そして閾(しきい)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、柄に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。(森鴎外著『渋江抽斎』)

これは探偵小説の一場面ではなく、さながら映画の活劇場面であろう。腰巻一枚の方はしばらく措き、果たして今日の映画女優に、一声能(よ)く三人の侍を走らせる裂帛(れっぱく)の気合ありやなしや。私は尊敬する先学北野克氏から恵贈された五百自筆の短冊「秋雨」を居室に掲げ、それをみる度に、鴎外の描いた幕末の女の勇気を想出す。

そぞろ読む中で出合った一場面。加藤さんの文章が鴎外の文章に負けていない!

2010-10-09

ノーベル平和賞

報道によると、ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、「長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国で人権問題で闘い続けてきた」として、中国の民主活動家で作家の劉暁波(りゅうぎょうは)氏(54)に10年ノーベル平和賞を授与すると発表した。同委は、事実上の世界第2の経済大国となった中国が、人権問題でも国際社会で責任ある役割を果たすよう強く求めた。中国政府は劉氏への授与決定を伝える衛星放送を一時遮断、外務省が「(劉氏は)犯罪者で、授賞は平和賞を冒とくしている」との談話を発表するなど強く反発した、らしい(毎日新聞2010年10月9日東京朝刊)。

ノーベル平和賞のことは一旦置く。1994年、加藤周一氏が、大江健三郎のノーベル賞受賞の意味を語った文章「川端康成から大江健三郎へ」を改めて読んだ。川端は「純粋に日本的」なものへの異国趣味を代表していた。すなわち「美しい日本の私」。しかし、大江は個別的・具体的・特殊な世界から出発して、普遍的な地平へ文学を広げた。すなわちテーマは「広島」であり、「沖縄」であり、「障害児」であったが、そのことを通じて世界の普遍的問題を語った。だから、大江の業績を世界が評価したことの意味は大きい。それは大江が代表する日本の文学者の業績に対する評価であり、現代日本の批判精神に対する評価であり、「つまるところ知的日本の存在の確認へも及ぶはずのもの」だと、その受賞をわがことのように喜び、評価している。

では、劉氏の受賞をどう考えるべきか。「人権」という普遍的価値をどう評価するか、という問題に行き着くと選考委員は考えたらしい。その普遍的価値基準を下げることはできないと。中国国内の基準ではなく、国際的な基準に照らしてどうかと。中国は環境問題でも国内を優先する行動をとった。これからもそれができるか?中国が世界における存在感を高めれば高めるほど、国際的な基準を尊重する態度を要求されるだろう。それに応えない限り、中国の国際的評価を高めることはできないし、あらゆる場面での抵抗を覚悟しなければならないだろう。中国が劉氏のノーベル賞受賞を、加藤氏が大江を評価したように評価できるようになるのは、いつか?そのときが来るとしたら、その時こそ中国が国際的な指導的国家としての地位を自他共に認める時であるはずだ、と私は思う。今はまだその時ではないらしい。

因みに、日本は、国際連合での常任理事国になることを目標にしているらしい。しかし、例えば日本国内の死刑制度や代用監獄の存在などの日本の司法制度に対する国際的な評価、また唯一の被爆国でありながら、反核を目的とした国際的決議への後ろ向きの投票行動に対する評価からすると、日本は国際的な基準を尊重する国とは認められていない。人権擁護や反核、つまるところ世界の民主主義の前進への貢献という意味において三流国の謗りを免れていない。事実、実質的な「政治犯」として国策捜査の結果、投獄される鈴木宗男氏のような事例も存在する。残念なことである。いわゆる「開発独裁国家」という範疇で考えれば、日本は中国を批判する立場にないことを、この機会に確認しておきたい。常任理事国などおこがましいということだ。


2010-10-02

成熟ということ

みずから成功を称え、失敗を隠す。善事を誇張し、悪事をごまかす。これは自慢話である。自慢話の用途は多く、世に広く行われている。たとえば商品の売り込みであり、政治家の、殊に選挙前の、演説である。しかし一国の歴史の叙述を自慢話に還元しようとするのは、その国の未熟さを示す。

文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。徳川時代の狂歌師にはそれがあった。いつの世の中でも、大真面目な自慢話ほど、幼稚で、愚劣で、しかも危険なものはない。(加藤周一「歴史の見方」1986年)

これは加藤さんの短い文章の最初と最後の引用である。当時から四半世紀が経過しているが、この国の現状はどうだろうか。残念ながら、相変わらず愚劣な自慢話に満ちているように見える。殊に、首相から外相まで。「大真面目な自慢話ほど、幼稚で、愚劣で、しかも危険なものはない」というフレーズに目が覚めるような戦慄を覚える。この話は人間の成熟ということにも、当然通じるだが…。

2010-09-30

記念すべき日に

今日は、田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に調印した歴史的な日である(1972年9月29日)。戦後の外交的な輝かしい成果の一つだと思う。敵国が一夜にして友好国となる。これを外交といわずして何であろうか。





この歴史的な日に当たって、加藤周一さんの論考「中国再訪」(1978年)を読んだ。少ない情報からできるだけ正しく中国を理解したいという姿勢は一貫している。分からないことは分からないとする態度にあらためて敬服する。しかし、ここでは全体ではなく、一部の印象的な言葉について書く。

一つ、一般に「イデオロギー言語」は、白黒がはっきりしている。「四人組」は「全く間違っていた」と言うのがその例。それに対して、「技術的な言語」、言い換えれば「科学的な言語」は、七分正しく、三分誤っていたという蓋然性を語る。後者が、1978年当時の中国を支配していると感じられたという。当然、後者の言語がその後の中国の発展を作り、現代に至っていることは言うまでもない。現代日本を支配する言語空間は、果たしてどちらか?大いに疑問なしとしない。

一つ、日本にはなかった、「革命」といものが、一切の行きすぎや矛盾にもかかわらず、中国をして「人間的な希望」のある、魅力的な国にしていると感じられると。少し長いが、引用する。

「近代日本の標語は、『天皇の為に奉仕する』であった。現代中国の標語は、『人民の為に奉仕する』である。もちろん標語は現実ではない。しかし卑屈な(それ故に傲慢な)標語もあり、誇り高い標語もある。中国を旅して心地よいことの一つは、外国人に対する卑屈な中国人に出会うことが、ほとんど全くないということである。通訳を除けば、外国語を話す人は少ない。他方中国での外国人の立場は特権的である。それにも係らず、外国人と接する機会の多い人々が、いくらか外国語を話す場合にも、全く話さぬ場合にも、外国人に媚びる態度を決して示さないのは、おどろくべきことであり、見事というほかはない。私は堂々として誇り高い中国人を素晴らしいと思う。」

加藤さんのこの文章を読んで、現代日本を考える。「科学的な言語」ではなく、「イデオロギー言語」が、「卑屈な、その故に傲慢な」態度が、この国に蔓延していないか。憂うべき現実が目の前に広がっているように感じられる。


今日の政府の対米隷属ぶりは目を覆いたくなる。ポチであることを芯から嬉しがっているのかもしれない。自らの奴隷根性にすら気づいていないのではと疑われる。正に奴隷そのものだ。田中はその後米国に潰されることになる。いつになったら独立国らしい政府と国民になれるのであろうか。



2010-06-02

「原則に従って生きる」ということ

加藤周一自選集第9巻の1998年の章に、作家・中村真一郎についての文章が4つ掲載されている。すなわち、「中村真一郎あれこれ」、「最後の日」、「『前衛』ということ」それに「中村真一郎、白井健三郎、そして駒場」である。前年の1997年12月25日に中村さんが亡くなったということがあった。加藤さんは中村さんの死い立会っている。「最後の日」とう文章にある通り。「中村のいない世界は、私にとって、彼がいた時の世界と同じではなかった」と記している。「中村真一郎は漫然と生きたのではなく、ある種の原則に従って生きていた」と。「中村真一郎あれこれ」という文章でも、「かくして戦後日本文学の『前衛』は原則に従って生き、原則に従って書いた。それは尊敬に値することである。」と書いた。「原則に従って生きた」のは、中村真一郎だけではない。そう書いた加藤周一さんもまた、見事に、原則に従って生きた、と思う。今日、DVD「加藤周一さん、九条を語る」が届く。不覚にもこれを見ながら、涙を止めることができなかった。失ったものの大きさを改めて想った次第。


DVD『加藤周一さん 九条を語る』

2010-03-14

ある晴れた日に

(加藤周一著「ある晴れた日に」(岩波現代文庫)には)反戦的な思想を持った、重い結核を患った画家が登場します。この画家は、戦争が終わった時に、天皇制というものをぶっ壊さなければだめだとはっきり口にする人間として描かれています。この画家が言うには、自分の妹は特高警察につかまって、他人には言えないような女としてのひどい拷問を受け、獄中で死んだ。父親は憲兵につきまとわれて、商売がいかなくなって自殺した。そして、この画家は「やつらをいま倒さなければ、やつらはまた武装するだろう」と言うのです。(沢地久枝「加藤周一のこころを継ぐために」P.34)

そのとおり「特高」は生き残り、今も公然と「拷問」を行っていることが明らかになっている。「戦後」に「戦前」はまんまと生き残り、また新たな「戦前」を始めようとしている。

2010-02-25

現代の宿痾

「ひとりね」があらためて私をおどろかすのは、・・その著者の精神の成熟の度合いである。その趣味、その文章、その人情の察し振りに、今日の青年男女の稚気をみること甚だ少ない。酸いも甘いもかみわけた思いが、まさに一八世紀の日本の武士社会の青春の書であった。早熟は必ずしもその文化の徳ではない、という人があるだろう。しかし私はそう思わない。三ツ児の魂百まで、いや、歳ニ〇にして稚気を脱しなければ、いつまで経っても、埒があかぬようである。(加藤周一著「青春または『ひとりね』の事」より)

加藤さんに同意する。少なくとも十八世紀の江戸には、「大人育成システム」が正常に作動していたらしい。それは現代との著しい違いだろう。「何言っちゃってんの。そんなに人生、甘くないでしょ」と石川代議士の女性秘書を脅したと報道された検事・民野某の行動に観察される、「お受験」勘違いエリート官僚に典型的な「人格未成熟」は、現代の「宿痾」といえるかもしれない。



2009-11-29

加藤周一さんのこと

加藤周一さんが亡くなってもう一年が過ぎようとしている。私にとって加藤さんの存在感が愈々増して来ているように思われる。毎月楽しみにしていた「夕陽妄語」を読めなくなったことだけではない、加藤さんの言辞の中にいつも混迷の中での指針を読み取ろうとしていた自分を感じている。その喪失感は計り知れない。


岩波書店から「加藤周一自選集」が毎月一冊ずつ刊行され始めた。今ではこれを読むことが楽しみの一つになっている。併せて「加藤周一著作集」(平凡社)も読み直している。

第二巻「現代ヨーロッパ思想註釈」の末尾に「サルトル論以前」という小論が収められている。この著作集の為に書き下ろされたものである。その中の文章に次のような件がある。

「日本でのサルトルから私が強い印象をうけたのは、ほとんど圧倒的なその知的能力からだけではなく、またおそらくはそれ以上に、その人格の人間的な質からであった。彼と何人かの人々と同席して、私は何度か、彼が誰に対しても全く同じ態度で接するのをみた。誰の話でも、注意深く、ほとんど聞き入るという態度で、終わりまで聞く。彼の能力を以ってすれば、相手の程度をたちまち見破ることは、極めて容易であったにちがいない。しかしサルトルが誰かの話を中断するということは、決してなかった。(略)第二次大戦後の世界でもっとも影響力の大きかった哲学者は、極東の無名の男女の誰とでも、また無名である故にフランス政府に逮捕されたパリの「マオイスト」の青年の誰とでも、基本的に平等な人間として、自分自身を感じていたにちがいない。それはあきらかに知的な結論ではなく、ほとんど感覚的な事実であり、いわばその人格の直接与件とでもいうべきものである。私はサルトルに、ほとんど比類を絶した人間的な温みを感じた。/その今日までの行動のなかで、私の知るかぎり、サルトルが彼自身の利益や地位や安全にとって、不利な行動をとった例は多いが、有利な行動をとった例は、一つもない。この人には、支配する側ではなく支配される側の、抑圧する側ではなく抑圧される側の、すなわち権力とその「番犬ども」以外のすべての人間の、誰の問題でも彼自身の問題とすることができるたしかな能力、稀な、というよりもほとんど信じ難い能力が、備わっているのだろう、と思う。その能力は、根元的に倫理的なものである。あるいは、倫理的価値の根拠は、そのような人間の能力を信じるところにしかありえない、といえるのかもしれない。」

何と美しい文章であろう。サルトルの「倫理的な人間」としての本質を賛嘆する加藤さんの気もちが率直に語られていて感動的だ。しかしこれはまさに加藤さん自身のことを語っているように私には感じられる。

ある小さなサークルに加藤さんが来られて話をされたことがあった。話の内容はぼんやりとしか覚えていない、しかしその折の加藤さんの態度は鮮明に思い浮かべることができる。それは加藤さんが賛嘆したところのサルトルの態度そのままであった。発言している人の顔をじっと見つめながら「聞き入る」加藤さんの姿は、まさしく加藤さんの「人格の人間的な質」から出たものであったろう、と思う。



2009-10-14

今日の収穫

偶々、かもがわ出版という京都の出版社のホーム・ページを覗いていると、「居酒屋のムッシュ・素顔の加藤周一」(2009年8月)という朝日新聞の4回にわたる連載記事のコピーが目にとまった。

もともと、かもがわ出版は加藤さんの著書を30冊も出版していて、その中に「居酒屋の加藤周一」という著書がある。京都の立命館大学の客員教授をされていたときに居酒屋で一般の人と語り合った記録がこの著書の由来。その会を白沙会といった。それにちなんだ今回の記事だと思われる。これが加藤さんの知られざる一面が分かってなかなか面白い。

たとえば、「男はつらいよ」シリーズには、いい人しかでてこない、現実感がないと批判的だったこと。「国民的映画」という「国民的」ということに戦前の「国民的美徳」の強制をダブらせて警戒していたこと。女性へのプラニックな接し方にも現実感がないと映っていたのではということ。また、5年間山口県から通いつめたという「不登校」だった女性に対して、そのことにはまったく触れず、ひとりの大人の一個人として接してくれたことがありがたかったという思い出。「九条の会」の設立が、政治状況の悪化に危機感を覚えた加藤さんのアイデアから生れたこと、などなど。

今日の思わぬ収穫だった。