2010-09-30

記念すべき日に

今日は、田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に調印した歴史的な日である(1972年9月29日)。戦後の外交的な輝かしい成果の一つだと思う。敵国が一夜にして友好国となる。これを外交といわずして何であろうか。





この歴史的な日に当たって、加藤周一さんの論考「中国再訪」(1978年)を読んだ。少ない情報からできるだけ正しく中国を理解したいという姿勢は一貫している。分からないことは分からないとする態度にあらためて敬服する。しかし、ここでは全体ではなく、一部の印象的な言葉について書く。

一つ、一般に「イデオロギー言語」は、白黒がはっきりしている。「四人組」は「全く間違っていた」と言うのがその例。それに対して、「技術的な言語」、言い換えれば「科学的な言語」は、七分正しく、三分誤っていたという蓋然性を語る。後者が、1978年当時の中国を支配していると感じられたという。当然、後者の言語がその後の中国の発展を作り、現代に至っていることは言うまでもない。現代日本を支配する言語空間は、果たしてどちらか?大いに疑問なしとしない。

一つ、日本にはなかった、「革命」といものが、一切の行きすぎや矛盾にもかかわらず、中国をして「人間的な希望」のある、魅力的な国にしていると感じられると。少し長いが、引用する。

「近代日本の標語は、『天皇の為に奉仕する』であった。現代中国の標語は、『人民の為に奉仕する』である。もちろん標語は現実ではない。しかし卑屈な(それ故に傲慢な)標語もあり、誇り高い標語もある。中国を旅して心地よいことの一つは、外国人に対する卑屈な中国人に出会うことが、ほとんど全くないということである。通訳を除けば、外国語を話す人は少ない。他方中国での外国人の立場は特権的である。それにも係らず、外国人と接する機会の多い人々が、いくらか外国語を話す場合にも、全く話さぬ場合にも、外国人に媚びる態度を決して示さないのは、おどろくべきことであり、見事というほかはない。私は堂々として誇り高い中国人を素晴らしいと思う。」

加藤さんのこの文章を読んで、現代日本を考える。「科学的な言語」ではなく、「イデオロギー言語」が、「卑屈な、その故に傲慢な」態度が、この国に蔓延していないか。憂うべき現実が目の前に広がっているように感じられる。


今日の政府の対米隷属ぶりは目を覆いたくなる。ポチであることを芯から嬉しがっているのかもしれない。自らの奴隷根性にすら気づいていないのではと疑われる。正に奴隷そのものだ。田中はその後米国に潰されることになる。いつになったら独立国らしい政府と国民になれるのであろうか。