2010-10-02

成熟ということ

みずから成功を称え、失敗を隠す。善事を誇張し、悪事をごまかす。これは自慢話である。自慢話の用途は多く、世に広く行われている。たとえば商品の売り込みであり、政治家の、殊に選挙前の、演説である。しかし一国の歴史の叙述を自慢話に還元しようとするのは、その国の未熟さを示す。

文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。徳川時代の狂歌師にはそれがあった。いつの世の中でも、大真面目な自慢話ほど、幼稚で、愚劣で、しかも危険なものはない。(加藤周一「歴史の見方」1986年)

これは加藤さんの短い文章の最初と最後の引用である。当時から四半世紀が経過しているが、この国の現状はどうだろうか。残念ながら、相変わらず愚劣な自慢話に満ちているように見える。殊に、首相から外相まで。「大真面目な自慢話ほど、幼稚で、愚劣で、しかも危険なものはない」というフレーズに目が覚めるような戦慄を覚える。この話は人間の成熟ということにも、当然通じるだが…。