2010-10-09

ノーベル平和賞

報道によると、ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、「長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国で人権問題で闘い続けてきた」として、中国の民主活動家で作家の劉暁波(りゅうぎょうは)氏(54)に10年ノーベル平和賞を授与すると発表した。同委は、事実上の世界第2の経済大国となった中国が、人権問題でも国際社会で責任ある役割を果たすよう強く求めた。中国政府は劉氏への授与決定を伝える衛星放送を一時遮断、外務省が「(劉氏は)犯罪者で、授賞は平和賞を冒とくしている」との談話を発表するなど強く反発した、らしい(毎日新聞2010年10月9日東京朝刊)。

ノーベル平和賞のことは一旦置く。1994年、加藤周一氏が、大江健三郎のノーベル賞受賞の意味を語った文章「川端康成から大江健三郎へ」を改めて読んだ。川端は「純粋に日本的」なものへの異国趣味を代表していた。すなわち「美しい日本の私」。しかし、大江は個別的・具体的・特殊な世界から出発して、普遍的な地平へ文学を広げた。すなわちテーマは「広島」であり、「沖縄」であり、「障害児」であったが、そのことを通じて世界の普遍的問題を語った。だから、大江の業績を世界が評価したことの意味は大きい。それは大江が代表する日本の文学者の業績に対する評価であり、現代日本の批判精神に対する評価であり、「つまるところ知的日本の存在の確認へも及ぶはずのもの」だと、その受賞をわがことのように喜び、評価している。

では、劉氏の受賞をどう考えるべきか。「人権」という普遍的価値をどう評価するか、という問題に行き着くと選考委員は考えたらしい。その普遍的価値基準を下げることはできないと。中国国内の基準ではなく、国際的な基準に照らしてどうかと。中国は環境問題でも国内を優先する行動をとった。これからもそれができるか?中国が世界における存在感を高めれば高めるほど、国際的な基準を尊重する態度を要求されるだろう。それに応えない限り、中国の国際的評価を高めることはできないし、あらゆる場面での抵抗を覚悟しなければならないだろう。中国が劉氏のノーベル賞受賞を、加藤氏が大江を評価したように評価できるようになるのは、いつか?そのときが来るとしたら、その時こそ中国が国際的な指導的国家としての地位を自他共に認める時であるはずだ、と私は思う。今はまだその時ではないらしい。

因みに、日本は、国際連合での常任理事国になることを目標にしているらしい。しかし、例えば日本国内の死刑制度や代用監獄の存在などの日本の司法制度に対する国際的な評価、また唯一の被爆国でありながら、反核を目的とした国際的決議への後ろ向きの投票行動に対する評価からすると、日本は国際的な基準を尊重する国とは認められていない。人権擁護や反核、つまるところ世界の民主主義の前進への貢献という意味において三流国の謗りを免れていない。事実、実質的な「政治犯」として国策捜査の結果、投獄される鈴木宗男氏のような事例も存在する。残念なことである。いわゆる「開発独裁国家」という範疇で考えれば、日本は中国を批判する立場にないことを、この機会に確認しておきたい。常任理事国などおこがましいということだ。