2009-11-29

加藤周一さんのこと

加藤周一さんが亡くなってもう一年が過ぎようとしている。私にとって加藤さんの存在感が愈々増して来ているように思われる。毎月楽しみにしていた「夕陽妄語」を読めなくなったことだけではない、加藤さんの言辞の中にいつも混迷の中での指針を読み取ろうとしていた自分を感じている。その喪失感は計り知れない。


岩波書店から「加藤周一自選集」が毎月一冊ずつ刊行され始めた。今ではこれを読むことが楽しみの一つになっている。併せて「加藤周一著作集」(平凡社)も読み直している。

第二巻「現代ヨーロッパ思想註釈」の末尾に「サルトル論以前」という小論が収められている。この著作集の為に書き下ろされたものである。その中の文章に次のような件がある。

「日本でのサルトルから私が強い印象をうけたのは、ほとんど圧倒的なその知的能力からだけではなく、またおそらくはそれ以上に、その人格の人間的な質からであった。彼と何人かの人々と同席して、私は何度か、彼が誰に対しても全く同じ態度で接するのをみた。誰の話でも、注意深く、ほとんど聞き入るという態度で、終わりまで聞く。彼の能力を以ってすれば、相手の程度をたちまち見破ることは、極めて容易であったにちがいない。しかしサルトルが誰かの話を中断するということは、決してなかった。(略)第二次大戦後の世界でもっとも影響力の大きかった哲学者は、極東の無名の男女の誰とでも、また無名である故にフランス政府に逮捕されたパリの「マオイスト」の青年の誰とでも、基本的に平等な人間として、自分自身を感じていたにちがいない。それはあきらかに知的な結論ではなく、ほとんど感覚的な事実であり、いわばその人格の直接与件とでもいうべきものである。私はサルトルに、ほとんど比類を絶した人間的な温みを感じた。/その今日までの行動のなかで、私の知るかぎり、サルトルが彼自身の利益や地位や安全にとって、不利な行動をとった例は多いが、有利な行動をとった例は、一つもない。この人には、支配する側ではなく支配される側の、抑圧する側ではなく抑圧される側の、すなわち権力とその「番犬ども」以外のすべての人間の、誰の問題でも彼自身の問題とすることができるたしかな能力、稀な、というよりもほとんど信じ難い能力が、備わっているのだろう、と思う。その能力は、根元的に倫理的なものである。あるいは、倫理的価値の根拠は、そのような人間の能力を信じるところにしかありえない、といえるのかもしれない。」

何と美しい文章であろう。サルトルの「倫理的な人間」としての本質を賛嘆する加藤さんの気もちが率直に語られていて感動的だ。しかしこれはまさに加藤さん自身のことを語っているように私には感じられる。

ある小さなサークルに加藤さんが来られて話をされたことがあった。話の内容はぼんやりとしか覚えていない、しかしその折の加藤さんの態度は鮮明に思い浮かべることができる。それは加藤さんが賛嘆したところのサルトルの態度そのままであった。発言している人の顔をじっと見つめながら「聞き入る」加藤さんの姿は、まさしく加藤さんの「人格の人間的な質」から出たものであったろう、と思う。