2009-11-01

世間師と寅さん

今日は、いやに生暖かい風が吹いてます。北海道は逆に吹雪だそうです。豚インフルにはご注意。

さて、民俗学者の宮本常一さんの名著「忘れられた日本人」(岩波文庫)をまた読み直しています。今までに何回読んだことか。そのたびに新しい発見がある不思議が本なのです。



この小さな本を読んでいて感じるのは、私たちの「自己イメージ」が如何に偏っているかということです。端的にいってしまえば、私たちはいかに「官製」のイメージを刷り込まれているか。動物行動学における「刷り込み」ですね。現代日本では「個性」を大事になどといいますが、戦前、特に明治以前の人びとの方がよっぽど個性的だったのでは考えさせられます。

このなかで「世間師」と呼ばれる興味深い人びとが登場します。私の中では、彼らの存在は「男はつらいよ」の寅さん=車寅次郎と結びつくのですが、広く世間を渡り歩く「自由人」としてのイメージですね。

「世間師」というのは、西日本、特に山口県あたりでよく聞かれた言葉で、各地を旅し広い見聞を持ち、世間のことを良く知っているだけでなく、ある見識を持っていて、共同体に何か事ある時には良き相談相手となり、周囲の人に役立つ人だというのです。

例えば、「男はつらいよ/知床慕情」(第38作、1987年)。マドンナ・りん子(竹下景子)が「とらや」の面々と寅について話す場面から。









りん子「でもね、知床という土地は夏には昆布、秋は秋アジ、冬はスケソウダラ、季節季節にいろいろな人が全国から仕事をしに来るから、よその人が1ヶ月や2ヶ月滞在していてもちっとも不思議じゃないんですよ」 ⇒実際「世間師」のよく集まる土地というのがあるらしいのです。 

さくら「へえ~」
りん子「いえ、寅さんて、もともとそう言う疑問を抱かせない人なんです。つい昨日会ったばかりなのに、ずっと昔から一緒にいる人のような」
博「なれなれしいからな、兄さん」 ⇒他者との世間的な壁がない。いかなる職業、身分、境涯の人とでも分け隔てなく付き合うことができる。それでいて他者の気持ちに関係なく、いきなり土足でこころに入り込むようなまねは絶対しないのが寅さんです。これが「自由人=世間師」たる所以です。

りん子「自由なんですよ、考え方が。みんな言ってますよ、寅さんとしゃべっていると、あくせく働くのが嫌になるって…フフッ」 ⇒キーワードは「自由」。ものの考え方に世間的な意味でのしがらみがない。「価値自由」な存在。
おばちゃん「そういう悪影響を他人に与えるんですよ、あの男は」 ⇒あ~、やだやだっておいちゃんもよく言っています。そんな寅さんは世間から見れば「異人」なのです。
りん子「いえ、そうじゃないんです。寅さんは、あの、人生にはもっと楽しい事があるんじゃないかなって思わせてくれる人なんですよ」  
博「へえ、優しい見方ですね」

知床に滞在中、寅はなにかにつけ土地の人の相談にのっていました。


例えば、りん子の離婚問題について親子の関係を修復したり、原因を解説したり、船長(すまけい)の子ども問題に言及したり、りん子の親爺の順吉(三船敏郎)と「はまなす」のママ・悦子(淡路恵子)との恋の取り持ちをしたりと、大活躍でした。

「世間師」は広い世間の情報を伝えるだけでなく、その土地の問題解決の相談にのったりする役割を持っていたというから、まさに寅は世間師の資格があります。


この後、イソップ物語「アリとキリギリス」の話が続きます。

さくら「でもね、それも程度問題じゃないかしら。ほら、イソップにそんな話があったじゃない」
博「どんな?」

さくら「暑い夏に汗水たらして働くのがアリで、それをバカにして歌ばっかり歌っていたキリギリスが寒い冬になると凍えて死んでしまった話」 ⇒寅に対する代表的意見ですね。定住者で地道な暮らし方をする「とらや」の面々からはそう見えるんでしょうね。寅だって遊んでいるわけじゃないのですが。
りん子「あら?じゃあ寅さんがキリギリス?」 ⇒ちょっと不満そうですね。さくらや博たちなど世間の中にいる人間には、寅さんの本質がよく分かっていないのかも知れません。だからこそ寅さんは、彼ら「世間」に生きる人びとにとっては、軽蔑の対象であると同時に畏敬の対象でもあるのでしょう。 
さくら「そう、小学校のとき学校の先生にその話聞いてね、涙が出てしょうがなかったの、お兄ちゃんの事思い出して」 ⇒兄思いのさくら!涙もんです。寅に聞かせてやりたいねぇ。

博「キリギリスか…」 
りん子「…」 
おばちゃん「そういえばあの男、キュウリとナスビが大好きだもんねえ」 ⇒出ました!おあばちゃんのボケが! 

因みに、最近の若者たちは「アリとキリギリス」の話をこう解釈しているのだそうです。 

「食べ物をしっかり貯えたアリは、ずっと今まで働いてばかりいたので、唄も歌えないし楽器も演奏できない。一方歌を歌いながら楽器を演奏してばかりいたキリギリスは、冬の食べ物を全く貯えていない。それで、アリたちはキリギリスに唄や楽器を演奏してもらい、その代わりに食べ物をそのたびに分け与え、アリはアリで心が潤って満足し、キリギリスも飢え死にしなくてすんだ、ということだ。」

え~っ!のけぞっちゃうますね。変に功利的というか。「飢える」ということのリアリティ無き現代ゆえか。食糧は外国から輸入すれはよい、食糧自給率が40%でも不安を覚えない現代日本ゆえか。「相互扶助」的な考え方で現代的だと評価する向きもあるようですが。古いのかしら、私は?寓話も時代の移り変わりで、その解釈も変わっていくということでしょうか。成熟社会の訪れを示しているのでしょうか? サービス産業化の進んだ社会だからこそこんな考え方がありえるのでは? しかし待てよ。

寅はおそらくキリギリスの生き方には賛成しないんじゃないでしょうか。やはり博のようないわゆる世間的に「まともな暮らし」に憧れているわけだから。しかし一方で、寅さんの意志とは関係なく、その存在そのものは現代的な意味でのキリギリスではないかとも思うのです。寅さんにしても「世間師」にしても漂泊していますから、定住する世間から見れば「まともな暮らし」には見えないのでしょう。しかし彼らは彼らなりに生きるためにちゃんと仕事はしています。それよりも彼らの存在は、世間の外に生きていることそのものに意義があるのではないでしょうか。世間の生き方や価値観から自由な存在として、また世間内と世間外(=異界)との境界を自由に行き来できる存在として、彼らにはそれなりの存在価値がある。その意味で私は、現在日本の閉塞状況が、この「異界」の縮小・消滅(=全体主義化、管理社会化、没個性化、非人間化!、カフカ的不条理化)とそれに伴って寅さんや世間師などの「異人」が存在しえなくなったことと深く関係しているのはないかと密かに疑っているのです。