「馬鹿意地」がいいよね。自矜の孤高を固守して世のもの笑いになる!まさに太宰の一つの傾向だなぁ。
大人といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。
これもいいなぁ。大人とは、裏切られた青年の姿である!
N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。
太宰の自己認識の確かさ。これこそ、もう一つの「大人」の定義だと思うのだが…。それと生涯変わらぬ、わが友、N君への畏敬と友情。
私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。さうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違ひないと思はれるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治といふのは、私の生れた時からの戸籍名であつて、また、オズカスといふのは叔父糟といふ漢字でもあてはめたらいいのであらうか、三男坊や四男坊をいやしめて言ふ時に、この地方ではその言葉を使ふのである。)
オズカス!これも太宰治こと津島修治の生涯変わらぬ自己認識。いたるところにこのような文章が散りばめられている「津軽」。お愉しみはこれからだ…。
「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い!もう二升買つて来い。
待て。その縁側にかけてある干鱈ひだらをむしつて、
待て、それは金槌かなづちでたたいてやはらかくしてから、むしらなくちや駄目なものなんだ。
待て、そんな手つきぢやいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合ひに、こんな工合ひに、あ、痛え、まあ、こんな工合ひだ。おい、醤油を持つて来い。干鱈には醤油をつけなくちや駄目だ。コツプが一つ、いや二つ足りない。早く持つて来い、
待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買つて来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらふんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいてゐるといふんでせう。あなたの頭の形に似てゐると思ふんですがね。しめたものです。おい、坊やをあつちへ連れて行け。うるさくてかなはない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまふぢやないか。
待て、お前はここにゐてサアヴイスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのをばさんに頼んで買つて来てもらへ。をばさんは、砂糖をほしがつてゐたから少しわけてやれ。
待て、をばさんにやつちやいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちやいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆはへて差し上げろ。子供を泣かせちや、いかん。失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。貴族つてのはそんなものぢやないんだ。
待て。砂糖はお客さんがお帰りの時でいいんだつてば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。シユーベルト、シヨパン、バツハ、なんでもいい。音楽を始めろ。
待て。なんだ、それは、バツハか。やめろ。うるさくてかなはん。話も何も出来やしない。もつと静かなレコードを掛けろ、
待て、食ふものが無くなつた。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来てゐる。果してお客さんのお気に召すかどうか、
待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食へないものだ。さうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」
私は決して誇張法を用みて描写してゐるのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。
可笑しい!Sさん、あなたは本当にいい人だ!
私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言ふのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないやうな気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるやうな気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持つてゐない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるやうな、決して出しやばらうとせぬつつましい温和な表情、悪く言へばお利巧なちやつかりした表情をして、旅人を無言で送迎してゐる。つまり、旅人に対しては全く無関心のふうを示してゐるのである。私は、深浦のこのやうな雰囲気を深浦の欠点として挙げて言つてゐるのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思つてゐる。これは、成長してしまつた大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥深く沈潜してゐる。津軽の北部に見受けられるやうな、子供つぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切つてゐる。ああ、さうだ。かうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信といふものがないのだ。まるつきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきものなるぞ。」などと人の悪口ばかり言つて、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、さうして悲しい孤独の宿命を形成するといふ事になつたのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑へよ。ルネツサンス直前の鬱勃たる擡頭力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さへあつたではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまつてゐる時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になつてゐるか、一夜しづかに考へて、などといふとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行かうではないか。
これも一種の自己分析だろう。太宰はあくまで津軽人であることを辞めない。
「あなたは、津島さんでせう。」と言つた。
「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
「さうでせう。どうも似てゐると思つた。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになつたからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似てゐるので。」
「でも、あれは、偽名でもないのです。」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変へて小説を書いてゐる弟さんがあるといふ事は聞いてゐました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」
私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになつた。塩辛は、おいしいものだつた。実に、いいものだつた。かうして、津軽の端まで来ても、やつぱり兄たちの力の余波のおかげをかうむつてゐる。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあつた。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知つたといふ事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗つた。
食いしん坊でいけないが、「鮑のはらわたの塩辛」で思い出した。大学時代の八戸出身の友達から母親の手作りの「イカの塩辛」をもらったことがあった。甘くてそれは美味だったが、「イカの墨は入れない」という彼の話を興味深く感じたのを今も憶えている。それまで「手作り」の塩辛というものを食した経験もなかったし、まして墨を入れない塩辛など。さらに、「鮑のはらわた」が引っ掛かる。寒い冬の日だった。カウンターしか無いような小さな寿司屋のカウンターに座っている。初めての店だった。熱燗でやっていると、別の客の注文で「鮑」の刺身が誂えられている。「そのはらわたが美味いんだがね」と何気なく店の主人に冗談のつもりで言ったものだった。するとその主人、はらわたをもった皿を目の前に置くではないか。「ロハ(只)ですよ」と笑っている。しめしめと連れと顔を見合わせたものだった。
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。
太宰治作「津軽」。これはやはり傑作ではなかろうか。少なくとも太宰治こと津軽人、津島修治を知るためには、必読の作品であろう。しかし、それだけではない。敗戦間近の昭和19年である。日本中に閉塞感が漂いはじめていた時代。「津軽」はそんな時代状況を殆んど感じさせないところが値打ちだろう、と思う。誰にとっても「忘れえぬ人」はおり、懐かしいふるさとがある。自分とは何者なのか、という問に深く関わっている。太宰はその解答をひとまず得たのである。そこには、自信を回復し、希望を見出し、そして平和な太宰がいる。だから、最後の文章に嘘偽りは無いように感じられる。太宰は、本気で、「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。」と鼓舞しているのである。