2010-08-21

反米国的ということ

クリントン政権で国家情報会議議長、国防次官補(国際安全保障担当)をつとめた、ジョージフ・ナイJoseph Samuel Nye, Jr.が、連邦議会が「反米国的」と見なすことになる、3つの行為を詳述した。

1.海自のインド洋での活動の中止
2.地位協定を見直そうとするあらゆる動き
3.在日米軍の移転合意を見直そうとするあらゆる動き(すなわち、普天間移転を含む)

だとさ。これってどれも私のみならず多くの日本国民が望んでることなんだけど!

米国自ら日本が「属国」であることをあからさまにした、という意味で面白い。それだけ「民主党政権」が怖いのだろう。飴と鞭で「あんたらは、単に『属国』をマネジメントするだけで、ええんよ」って分からせたいわけだ。

面白い!上等だよ、お望みどおり「反米国的」になってやろうじゃないの!

2010-08-20

フランス映画に見る女と男

往年のフランス映画を2本観た。いずれも主演はジャンポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933年生まれ)。

ピーター・ブルック監督、ジャンヌ・モロー共演、マルグリット・デュラス原作の「雨のしのび逢いModerato cantabile(音楽用語=中くらいの速さで歌うように)」(1960)、もう一本が、ジャン・ベッケル監督「勝負(かた)をつけろUn nommé La Rocca(ロッカと呼ばれる男)」(1961)。

「雨のしのび逢い」は、偽善的なブルジョア社会と夫に嫌悪感を募らせ、そこから脱出したいと願望する人妻(ジャンヌ・モローJeanne Moreau、1928年生まれ)と閉塞する現状から脱出したいと願望する男(ジャンポール・ベルモンド)の悲恋物語。最後は情夫に捨てられ人妻の精神的な死で幕を閉じる悲劇。



ピーター・ブルック(Peter Brook、1925年生まれ)は、RSC(Royal Shakespeare Company)で独創的な演出で夙に知られる演出家。冒頭で起こる若い男が人妻を銃で撃ち殺す事件が二人の運命を暗示する筋書きの上手さ、最後の場面、絶望の声を上げくず折れる彼女を夫の乗る車のヘッド・ライトが無慈悲にも照らし出す演出に息をのんだ。

ジャンヌ・モローはまさに女ざかり。若いベルモンドとの道ならぬ恋に陥っていく人妻の戸惑いと情念の激しさを好演。実際の年齢からも5歳年上。官能的な女の色香を存分に感じさせてくれる。この映画はジャンヌ・モローを観るためにある。カンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲得している。


「勝負(かた)をつけろ」は、無実の罪で服役する親友を救うためにすべてを犠牲にし献身する男の友情、その友情に応えよとして男の犯す愚かな行為によって最愛の人を死に至らしめ、彼の行為が全て無駄になるという結末で終わる悲劇。








これは、ベルモンドが演じる、フランス人が理想とする男っぷりのよさを観るための映画。友情に篤い一匹狼。目的のためにはあらゆる試練を乗り越える頑強な肉体と精神を持っている。あくまで行動の人である。外見は冷静そのものだが、内面は熱い。


日本の題名のセンスの無さにあきれるが、映画はいかにもフランス映画という感じ。まず社会の規範や秩序よりも個人を優先するフランス独特の個人主義を強く感じる点で共通。また曖昧さを廃する硬質な論理構成もフランス映画らしい。

演出においても、感情表現や大げさな行動は抑制されあくまで淡々と行動と言葉が積み重ねられていく。その結果対象との適切な距離感が保たれ、過度の感情移入が避けられる。しかしその効果として逆に観終わった後に強い余韻が観客の心に残るという手法はさすが。

この映画文法にジャンポール・ベルモンドが正に適役。最初から最後まで、感情を制御しポーカー・フェースで通している。無駄のない行動と寡黙だが断固とした言葉の人に徹している。何の苦も無くやすやすと既成の秩序からはみ出す自由を体現している。そこにはいささかも「甘さ」がない。特に後者でみられる演技から自然と滲み出る意図せぬ滑稽味・飄逸さも彼の魅力の一つだろう。

要するに、ジャンヌ・モローがフランス人好みの「女の魅力」を発散させているとすれば、ジャンポール・ベルモンドは「男の魅力」満載なのだ。

ジャン-リュック・ゴダール監督「勝手にしやがれÀ bout de souffle」(1960)の主人公にも通じる。これがフランスにおける彼の人気の秘密であろう。アラン・ドロンの「甘さ」は、外国人には、特に日本人にはたまらないらしいが、フランス人の好みではないらしい。

2010-08-19

死んだ女の子

若松孝二監督「キャタピラーCaterpillar」。2010年ベルリン国際映画祭コンペティション部門/寺島しのぶが最優秀女優賞受賞した作品。



原作は江戸川乱歩作「芋虫」だろう。「だろう」というのは、どうした訳か、公式ホームページを見てもそのことに触れられていないのである。だから、日本の題名が「キャタピラー」とされているのも、「芋虫」であることを意図的に隠ぺいするためではと勘ぐりたくなる。とすると原作への冒涜ではないだろうか、と突っ込んでみる。因みに、丸尾末広の作画で劇画にもなっている。



イントロダクション・あらすじ

これは、かつて軍国主義に陥ったこの国へ刃を向けつつも、ありきたりな反戦映画に終始することのない問題作だ。犠牲となった男女の哀しくも酷たらしい営みを通し、あの時代の総括を試みる過激でいびつな性愛のスペクタクルである。中国戦線へ出征し正義の名の下に強姦と虐殺の限りを尽くしてきた夫が、妻の元へ無残な姿で帰還する。四肢を失い顔面は焼け爛れ「軍神」として崇められる夫。その視座から執拗なまでに映し出されるのは、勲章と勲功を称える記事、そして天皇皇后の御真影。名誉、煽動メディア、国家権力に翻弄され、“食べては求める”だけの肉の塊と化した夫への屈折した愛憎のプロセスを、寺島しのぶは見事に体現してみせる。異形への嫌悪は徐々に軍神の貞淑な妻としての誇りに変容するが、やがて偽善と欺瞞に満ちた戦争のシンボルとしての夫に怒りをぶちまけ、関係性は反転して妻は夫を性の道具として扱うまでになる。
エロスとイデオロギーをテーマに描き続ける若松孝二の集大成であることは言うまでもない。…食欲と性欲だけを残し芋虫のようにのたうち回るグロテスクな姿は、だらだらと米国に依存した平和のなか経済を拠り所に生き長らえる我々と何が違うのか。「戦後」は未だ終わっておらず、愚行は何度でも繰り返されることを、若松は切実な思いで訴えかけている。(清水節)

しかし、ここで取り上げたいのは、そのことではない。映画「キャタピラー」の主題歌、「死んだ女の子」。昔、高石ともやが歌っていたものを、元ちとせがカヴァーしている(原爆ドームを背景に、坂本龍一がピアノで伴奏する映像がyoutubeで見られる)。ヒロシマで死んだ女の子の立場から「原爆」を歌った歌。哀切(故に、映画とちょっとそぐわない気がした)。





「死んだ女の子」

作詞:ナジム・ヒクメット、訳詞:中本信幸・服部伸六、作曲:外山雄三、歌手:元ちとせ

開けてちょうだい たたくのはあたし
あっちの戸 こっちの戸
あたしはたたくの
こわがらないで みえないあたしを
だれにもみえない 死んだ女の子

あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 十年まえに
あの時も七つ いまでも七つ
死んだ子は決して 大きくならないの

炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしの瞳を
あたしの体は 一つかみの灰
冷たい風に さらわれていった灰

あなたにお願いだけど あたしは
パンもお米も なにもいらないの
甘いあめ玉も しゃぶれないの
紙切れみたいに 燃えたあたしは

戸をたたくのは あたし あたし
平和な世界に どうかしてちょうだい
炎が子供を やかないように
甘いあめ玉がしゃぶれるように
炎が子供を やかないように
甘いあめ玉がしゃぶれるように


実は、もう一つヴァージョンがある。

「死んだ女の子」

作詞:ナジム・ヒクメット、訳詞:飯塚広、作曲:木下航二、歌手:小夏鮎



1.
とびらをたたくのはあたし
あなたの胸(むね)にひびくでしょう
小さな声が聞こえるでしょう
あたしの姿は見えないの

2.
十年前の夏の朝
あたしはヒロシマで死んだ
そのまま六つの女の子
いつまでたっても六つなの

3.
あたしの髪(かみ)に火がついて
目と手がやけてしまったの
あたしは冷い灰になり
風で遠くへとびちった

4.
あたしは何にもいらないの
誰にも抱いてもらえないの
紙切れのようにもえた子は
おいしいお菓子も食べられない

5.
とびらをたたくのはあたし
みんなが笑って暮せるよう
おいしいお菓子を食べられるよう
署名をどうぞして下さい


詩の作者であるナジム・ヒクメットは、トルコの抵抗詩人である。詩にあるように、原爆投下から10年経過した1955年頃に作られたのであろう。年譜によるとその頃、トルコの弾圧を逃れてモスクワにいたようだ。

カバー写真


死んだ少女
発行所 国文社

概 要
ヒクメットは1902年トルコのサロニカに生まれた。当時のトルコではヨーロッパ強国の利害関係が交錯しており、莫大な負債と不平等条約によってしばられていた。こうした政治的条件の中で、民族解放戦争が起こり、トルコの進歩的文学運動が生まれた。ヒクメットはその革命文学の旗手、指導者であった。彼の詩は終始闘いの中で書かれ、闘いを訴え、闘いを支えてきた。と同時にしいたげられる者への心からの関心と労り、闘う者への賞賛と誇りをこめてうたわれる。ヒクメットの受けた刑は判決にして50年、獄中生活は17年の長きにわたるが、彼の詩には常に明るい未来への期待と確信がうかがわれる。「死んだ少女」「雲が人間を殺さないように」「日本の漁夫」は死の灰をテーマとした三部作をなしており、わけてもヒロシマをうたった「死んだ少女」は広く各国語に訳され、原水爆禁止運動の発展に大きく寄与したといえよう。


原詩でも歌われている。ヒクメットの肉声朗読とトルコの作曲家・歌手のズルフ・リバネリOmer Zulfu Livaneliが作曲したものを、ジョン・バエズJoan Baezが歌っている。




Kiz Cocugu 原詩        Little Girl 直訳(Engin Gunduz)

Kapilari calan benim        It's me who knocks 
kapilari birer birer.       the doors one by one. 
Gozunuze gorunemem      You can't see me 
goze gorunmez oluler.    --the deads are invisible. 

Hirosima'da oleli        It has been around ten years 
oluyor bir on yil kadar.    since I've dead in Hiroshima. 
Yedi yasinda bir kizim,    I'm seven years old 
buyumez olu cocuklar.    --dead children do not grow. 

Saclarim tutustu once,    First my hair caught fire, 
gozlerim yandi kavruldu.    my eyes burnt. 
Bir avuc kul oluverdim,    I've turned into a handful of ash, 
kulum havaya savruldu.    and that was scattered into the air. 

Benim sizden kendim icin   I don't ask you for anything 
hicbir sey istedigim yok.    for myself. 
Seker bile yiyemez ki      A child who burns like a piece of paper 
kagit gibi yanan cocuk.     cannot eat even candy, anyway. 

Caliyorum kapinizi        I knock your door, 
teyze, amca, bir imza ver.    dear lady, dear sir, give me your signature 
Cocuklar oldurulmesin     so that children won't get killed, 
seker de yiyebilsinler.      so that they can eat candy.

リバネリ自身が歌っている。


HiroshimaとNagasakiが世界に与えた衝撃を改めて思う。ややもすると内向きになりがちな私のこころを世界に広げてくれた。この詩と歌に感謝している。


2010-08-12

夕立 永井荷風作

東京の西郊、武蔵野の面影がいまだに残っていた子供の頃、夏の午後には必ずといっていいほど夕立となった。黒雲が天を覆いたちまち驟雨となり、稲光がした途端に雷鳴が鳴り響いた。蚊帳をつって避難したのを今のことのように想い出す。ひとしきり嵐が過ぎ去ると一転雲間から夏の光が照りつけ、東の空に大きな虹がかかった。近くの田野に出て雨後の湿った土や草花の露に濡れながら虹を眺めたものだった。黒澤明監督「夢」の第一話「日照り雨」が印象深い。雨の滴る森の中、霧の中から狐の嫁入りの行列が現れる場面の妖しい雰囲気に魅せられた。荷風先生の「夕立」は短い小品だけれども、豊かな古今東西の薀蓄を披露しながら大久保余丁町の庭の情景で終わる構成は緻密に計算された逸品である。「夕立もまた東都名物の一つなり」と威勢よく書き出される。


夕立 永井荷風


 白魚しらうお、都鳥、火事、喧嘩、さては富士筑波つくばの眺めとともに夕立もまた東都名物のひとつなり。
 浮世絵に夕立を描けるものはなはだ多し。いずれも市井しせいの特色を描出えがきいだして興趣津々しん/\たるが中に鍬形※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)くわがたけいさいが祭礼の図に、若衆わかいしゅ大勢たいぜい夕立にあいて花車だしを路頭に捨て見物の男女もろともに狼狽疾走するさまを描きたるもの、余の見し驟雨の図中その冠たるものなり。これにぐものは国芳くによし御厩川岸おんまやがし雨中の景なるべし。
 狂言稗史はいしの作者しばしば男女奇縁を結ぶの仲立に夕立を降らしむ。清元浄瑠璃きよもとじょうるりの文句にまた一しきり降る雨に仲を結ぶの神鳴かみなりや互にいだき大川の深き契ぞかわしけるとは、その名も夕立と皆人の知るところ。常磐津ときわづ浄瑠璃に二代目治助が作とやら鉢の木を夕立の雨やどりにもじりたるものありと知れどいまだその曲をきく折なきをうらみとせり。
 一歳ひととせ浅草代地河岸だいちがし仮住居かりずまいせし頃の事なり。築地より電車に乗り茅場町かやばちょうへ来かかる折から赫々たる炎天俄にかきくもるよと見る間もなく夕立襲い来りぬ。人形町にんぎょうちょうを過ぎやがて両国にきたれば大川おおかわおもて望湖楼下ぼうころうかにあらねどみず天の如し。いつもの日和下駄ひよりげた覆きしかど傘持たねば歩みて柳橋やなぎばし渡行わたりゆかんすべもなきまま電車の中に腰をかけての雨宿り。浅草橋もあとになし須田町すだちょうに来掛る程に雷光すさまじく街上に閃きて雷鳴止まず雨には風もくわわりて乾坤けんこんいよいよ暗澹たりしが九段を上り半蔵門に至るに及んで空初めて晴る。虹中天に懸り宮溝きゅうこう垂楊すいよう油よりも碧し。住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり。
 巴里パリーにては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬さいばおもむく時、驟雨濺来そそぎきたって紅囲粉陣更に一段の雑沓を来すさま、巧にゾラが小説ナナの篇中に写し出されたりと記憶す。
 紐育ニューヨークにては稀に夕立ふることあり。盛夏の一夕いっせきわれハドソン河上の緑蔭を歩みし時驟雨を渡頭ととうの船に避けしことあり。
 漢土かんどには白雨を詠じたる詩にして人口に膾炙するもの東坡とうばが望湖楼酔書を始めとう※(「にんべん+屋」、第4水準2-1-66)かんあく夏夜雨かやのあめしん呉錫麒ごしゃくき澄懐園消夏襍詩ちょうかいゑんしょうかざっしなぞそのるいすくなからず。彼我風土の光景互に相似たるを知るに足る。
 わが断腸亭奴僕ぬぼく次第に去り園丁来る事また稀なれば、庭樹いたずらに繁茂して軒を蔽い苔はきざはしを埋め草はかきを没す。年々鳥雀ちょうじゃく昆虫の多くなり行くこと気味わるきばかりなり。夕立おそいきたる時窓によって眺むれば、日頃は人をも恐れぬ小禽ことりの樹間に逃惑うさまいと興あり。巣立して間もなき子雀蝉とともに家のうちに迷入ること珍らしからず。是れ無聊を慰むる一快事たり。



歌川国芳 東都御厩川岸之図




2010-08-04

ホノカアボーイ~岡田将生



ムーンボー、つまり月の虹。ハワイでは、滅多に見ることができないため、見ることができれば願い事がかなうと言い伝えられているらしい。岡田将生、倍賞千恵子、正司照枝、喜味こいし、深津絵里、松坂慶子などが出演する映画「ホノカアボーイ」(真田敦監督、2009)で知った。

特に倍賞千恵子がかわいい老女を演じているのは嬉しい。豪快に鼾をかく散髪屋の老女役の正司照枝、喜味こいしのエロ爺さんもキュート。松坂慶子の堂々たる太鼓腹も圧感。チョイ役の深津の滑稽味など、ハワイのちっちゃなホノカアという町の住人がそれぞれスローライフを体現している。佳作。こんな社会を目指せないかなぁ。馬鹿の一つ覚えのように「成長」とか「開発」とか「1番」とか、いつまでもトンチンカンでアホなこといってないでさぁ。




アイスクリームが とけそうだから
雨のなかを 歩くのをやめて
虹が消えるまで 虹が消えるまで
僕の好きな この道に立ってた

この世界に もしも海がなかったら
たぶん君も いないだろうって
この気持ちも この歌も
この風も この虹も なかったのかな?

虹が消える 虹が消える 虹が僕の前から
虹が消える 虹が消える 虹がこの世界から

いつかの別れが 僕らにきても
それは特別 意味などないって
虹が消えたあと 虹が消えたあと
君の好きな あの歌がきこえてた

この世界が ゆっくり教えてくれた
大切なのは 始まりなんだって
この気持ちも この歌も
この風も この虹も 嘘じゃないよね?

虹が消える 虹が消える 虹が僕の前から
虹が消える 虹が消える 虹がこの世界から

雨と太陽と君がいたら また虹はかかるから
雨と太陽と君がいたら また虹はかかるから






原作は、吉田 玲雄著「ホノカアボーイ」(幻冬舎)


北の国から'87初恋~泥の付いた一万円札



「北の国から 87初恋」のラストシーンを見ていた。シりーズ中、屈指の名場面。目に涙がにじむ…。純が東京へ旅立つ。





五郎:(運転手に)それじゃよろしくお願いします!
蛍走って、純の側へまわる。
トラック、スタート。
蛍:(叫ぶ)れいちゃんの居場所わかったら教えるから!
純、首を突き出す。その目に…。雪の中に立った父と妹の姿…たちまち遠ざかる。

走る車内
純。
こみ上げてくる涙をかくすように、窓を閉める。
純:(運転手に、小さく。)ヨロシクオネガイシマス
運転手(古尾谷雅人ふるおやまさと・1957年 - 2003年):…
純:…
純、ウォークマンをつけボタンを押す。
尾崎豊のI LOVE YOUが流れだす。

記憶(フラッシュ)
れい

走る車内
純。

記憶(フラッシュ)
れいとの記憶。

走る車内
純。


続く雪道。

走る社内
純。
そのイヤホンが突然抜かれる。
純:ハ?
運転手を見る。
純:すみません、きこえませんでした。
運転手、フロントグラスの前に置かれた封筒をあごで指す。
純:ハ?
運転手:しまっとけ。
純:…何ですか。
運転手:金だ。いらんっていうのにおやじが置いていった。しまっとけ。
純:あ、いやそれは。
運転手:いいから、お前が記念にとっとけ。
純:いえ、アノ。
運転手:抜いてみな。ピン札に泥がついている。お前のおやじの手についてた泥だろう。
純。
運転手:オラは受取れん。お前の宝にしろ。貴重なピン札だ。一生とっとけ。
純。
…。

恐る恐る封筒をとり、中からソッと札を抜き出す。
二枚のピン札。
ま新しい泥がついている。
純の顔。
音楽…テーマ曲、静かに入る。B・G。
純の目からドッと涙が吹き出す。
音楽…エンドマーク


津軽 / 太宰治

この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残つてゐるらしいのである。永慶軍記といふ古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず。」といふ言葉が記されてゐるさうだが、弘前の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ。

「馬鹿意地」がいいよね。自矜の孤高を固守して世のもの笑いになる!まさに太宰の一つの傾向だなぁ。



大人といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。

これもいいなぁ。大人とは、裏切られた青年の姿である!



N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。

太宰の自己認識の確かさ。これこそ、もう一つの「大人」の定義だと思うのだが…。それと生涯変わらぬ、わが友、N君への畏敬と友情。



私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。さうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違ひないと思はれるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治といふのは、私の生れた時からの戸籍名であつて、また、オズカスといふのは叔父糟といふ漢字でもあてはめたらいいのであらうか、三男坊や四男坊をいやしめて言ふ時に、この地方ではその言葉を使ふのである。)

オズカス!これも太宰治こと津島修治の生涯変わらぬ自己認識。いたるところにこのような文章が散りばめられている「津軽」。お愉しみはこれからだ…。



Sさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。Sさんは、お家へはひるなり、たてつづけに奥さんに用事を言ひつけるのである。

「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。たうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰つて人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよからう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んぢやつたんだ。リンゴ酒を持つて来い。なんだ、一升しか無いのか。少い!もう二升買つて来い。
待て。その縁側にかけてある干鱈ひだらをむしつて、
待て、それは金槌かなづちでたたいてやはらかくしてから、むしらなくちや駄目なものなんだ。
待て、そんな手つきぢやいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合ひに、こんな工合ひに、あ、痛え、まあ、こんな工合ひだ。おい、醤油を持つて来い。干鱈には醤油をつけなくちや駄目だ。コツプが一つ、いや二つ足りない。早く持つて来い、
待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買つて来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらふんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいてゐるといふんでせう。あなたの頭の形に似てゐると思ふんですがね。しめたものです。おい、坊やをあつちへ連れて行け。うるさくてかなはない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまふぢやないか。
待て、お前はここにゐてサアヴイスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣りのをばさんに頼んで買つて来てもらへ。をばさんは、砂糖をほしがつてゐたから少しわけてやれ。
待て、をばさんにやつちやいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちやいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆはへて差し上げろ。子供を泣かせちや、いかん。失敬ぢやないか。成金趣味だぞ。貴族つてのはそんなものぢやないんだ。
待て。砂糖はお客さんがお帰りの時でいいんだつてば。音楽、音楽。レコードをはじめろ。シユーベルト、シヨパン、バツハ、なんでもいい。音楽を始めろ。
待て。なんだ、それは、バツハか。やめろ。うるさくてかなはん。話も何も出来やしない。もつと静かなレコードを掛けろ、
待て、食ふものが無くなつた。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来てゐる。果してお客さんのお気に召すかどうか、
待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食へないものだ。さうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ。」

私は決して誇張法を用みて描写してゐるのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。

可笑しい!Sさん、あなたは本当にいい人だ!



私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言ふのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないやうな気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるやうな気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持つてゐない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるやうな、決して出しやばらうとせぬつつましい温和な表情、悪く言へばお利巧なちやつかりした表情をして、旅人を無言で送迎してゐる。つまり、旅人に対しては全く無関心のふうを示してゐるのである。私は、深浦のこのやうな雰囲気を深浦の欠点として挙げて言つてゐるのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思つてゐる。これは、成長してしまつた大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥深く沈潜してゐる。津軽の北部に見受けられるやうな、子供つぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切つてゐる。ああ、さうだ。かうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信といふものがないのだ。まるつきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきものなるぞ。」などと人の悪口ばかり言つて、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、さうして悲しい孤独の宿命を形成するといふ事になつたのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑へよ。ルネツサンス直前の鬱勃たる擡頭力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さへあつたではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまつてゐる時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になつてゐるか、一夜しづかに考へて、などといふとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行かうではないか。

これも一種の自己分析だろう。太宰はあくまで津軽人であることを辞めない。



翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べてゐたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持つて来て、
「あなたは、津島さんでせう。」と言つた。
「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。
「さうでせう。どうも似てゐると思つた。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになつたからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似てゐるので。」
「でも、あれは、偽名でもないのです。」
「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変へて小説を書いてゐる弟さんがあるといふ事は聞いてゐました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」
私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになつた。塩辛は、おいしいものだつた。実に、いいものだつた。かうして、津軽の端まで来ても、やつぱり兄たちの力の余波のおかげをかうむつてゐる。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあつた。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知つたといふ事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗つた。

食いしん坊でいけないが、「鮑のはらわたの塩辛」で思い出した。大学時代の八戸出身の友達から母親の手作りの「イカの塩辛」をもらったことがあった。甘くてそれは美味だったが、「イカの墨は入れない」という彼の話を興味深く感じたのを今も憶えている。それまで「手作り」の塩辛というものを食した経験もなかったし、まして墨を入れない塩辛など。さらに、「鮑のはらわた」が引っ掛かる。寒い冬の日だった。カウンターしか無いような小さな寿司屋のカウンターに座っている。初めての店だった。熱燗でやっていると、別の客の注文で「鮑」の刺身が誂えられている。「そのはらわたが美味いんだがね」と何気なく店の主人に冗談のつもりで言ったものだった。するとその主人、はらわたをもった皿を目の前に置くではないか。「ロハ(只)ですよ」と笑っている。しめしめと連れと顔を見合わせたものだった。



「子供は?」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人」
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。

太宰治作「津軽」。これはやはり傑作ではなかろうか。少なくとも太宰治こと津軽人、津島修治を知るためには、必読の作品であろう。しかし、それだけではない。敗戦間近の昭和19年である。日本中に閉塞感が漂いはじめていた時代。「津軽」はそんな時代状況を殆んど感じさせないところが値打ちだろう、と思う。誰にとっても「忘れえぬ人」はおり、懐かしいふるさとがある。自分とは何者なのか、という問に深く関わっている。太宰はその解答をひとまず得たのである。そこには、自信を回復し、希望を見出し、そして平和な太宰がいる。だから、最後の文章に嘘偽りは無いように感じられる。太宰は、本気で、「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。」と鼓舞しているのである。


ブラザー軒 / 高田渡

高田渡に「ブラザー軒」という歌がある。鶴見さんの「小さな理想」で知ったが、詩は菅原克己という左翼詩人のものとか。彼は仙台市出身。仙台には、今も「ブラザー軒」というレストランがある。行ってみたくなった。仙台市青葉区。1902年(明治35年)11月3日、初代前田常吉がブラザー軒を開業、と案内にある。今は「一流」レストランのようだが、歌詞からは街の何でもない喫茶店といった趣が伝わる。この歌は仙台の七夕祭りの日の「幻影」だろうか?死んだ父親と妹。お気に入りの一曲だ。

「ブラザー軒」

東一番丁、ブラザー軒
硝子簾がキラキラ波うち、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死んだおやじが入って来る。
死んだ妹をつれて
氷水喰べに、
ぼくのわきへ。

色あせたメリンスの着物。
おできいっぱいつけた妹。
ミルクセーキの音に、
びっくりしながら。

細い脛だして
細い脛だして
椅子にずり上がる
椅子にずり上がる

外は濃藍色のたなばたの夜。
肥ったおやじは小さい妹をながめ、
満足気に氷を噛み、
ひげを拭く。

妹は匙ですくう
白い氷のかけら。
ぼくも噛む
白い氷のかけら。

ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
おやじはひげを拭く。
妹は氷をこぼす。

簾はキラキラ、
風鈴の音、
あたりいちめん
氷を噛む音。

死者ふたり、つれだって帰る、
ぼくの前を。
小さい妹がさきに立ち、
おやじはゆったりと。

ふたりには声がない。
ふたりには声がない。
ふたりにはぼくが見えない。
ふたりにはぼくが見えない。

東一番丁、ブラザー軒。
たなばたの夜。
キラキラ波うつ
硝子簾の、向うの闇に。



来青花 永井荷風作

「来青花」という荷風先生の文章がある。先生の父君が残した大久保余丁町の家の庭に馥郁たる香りを放つ樹木があった。父君は漢詩をよくし中国の文物を愛でた。中国からさまざまな植物を自分の庭に移し植えた。その一つがこの「来青花」と先生が名付けた樹木。たぶんオガタマらしいが不明。これを先生は生前対立した父君と重ね合わせて懐かしむ。漢文調独特のリズムと対象との距離感が絶妙。小品ながら珠玉の逸品。





来青花らいせいか


 ふぢ山吹やまぶきの花早くも散りて、新樹のかげ忽ち小暗をぐらく、さかり久しき躑躅つゝじの花の色も稍うつろひ行く時、松のみどりの長くのびて、金色こんじきの花粉風きたれば烟の如く飛びまがふ。月正に五月に入つて旬日を経たる頃なり。もし花卉くわきを愛する人のたま/\わが廃宅に訪来とひきたることあらんか、蝶影てふえい片々たる閑庭異様なる花香くわかうの脉々として漂へるを知るべし。而して其香気は梅花梨花の高淡なるにあらず、丁香ていかう薔薇しやうびの清凉なるにもあらず、将又はたまた百合の香の重く悩ましきにも似ざれば、人或はこれを以て隣家のくりやに林檎を焼き蜂蜜を煮詰むる匂の漏来もれきたるものとなすべし。此れ便すなはち先考来青らいせい山人往年滬上こじやうより携へ帰られし江南の一奇花きくわ、わが初夏の清風に乗じて盛に甘味かんみを帯びたる香気を放てるなり。初め鉢植にてありしを地にくだしてより俄に繁茂し、二十年の今日既に来青らいせいかく檐辺えんぺんに達して秋暑の夕よく斜陽の窓を射るを遮るに至れり。常磐木ときはぎにてその葉は黐木もちに似たり。園丁これをオガタマの木と呼べどもわれいまだオガタマなるものを知らねば、一日いちにち座右ざうにありしはぎ先生が辞典を見しに古今集三木さんぼくの一古語にして実物不詳とあり。れば園丁の云ふところ亦にはかに信ずるに足らず。余しば/\先考の詩稿を反復すれども詠吟いまだ一首としてこの花に及べるものを見ず。母に問ふといへどもまた其の名を知るによしなし。こゝに於てわれみづから名づくるに来青花らいせいかの三字を以てしたり。五月薫風簾をうごかし、門外しきりに苗売の声も長閑のどかによび行くあり。満庭の樹影青苔せいたいの上によこたはりて清夏の逸興にはかきたるを覚ゆる時、われ年々来青花のほとりに先考所蔵の唐本たうほんを曝して誦読日の傾くを忘る。来青花そのおほいさ桃花の如く六瓣にして、其の色はくわうならずはくならず恰も琢磨したる象牙の如し。しかして花瓣の肉はなはだ厚く、ほのかに臙脂の隈取くまどりをなせるは正に佳人の爪紅つまべにを施したるに譬ふべし。花心くわしんだいにして七菊花の形をなし、臙脂の色濃く紫にまがふ。一花いつくわ落つれば、一花開き、五月を過ぎて六月霖雨りんうこうに入り花始めて尽く。われ此の花に相対して馥郁たる其の香風かうふううちに坐するや、秦淮しんわい秣陵まつりよう詩歌しいかおのづから胸中に浮来うかびきたるを覚ゆ。今こゝろみに菩提樹の花を見てよく北欧の牧野田家ぼくやでんかの光景を想像し、橄欖樹の花に南欧海岸の風光を思ひ、リラの花香くわかう巴里パリー庭園の美を眼前に彷彿たらしむることを得べしとせんか。月の萩と芒の影おのづから墨絵の模様を地に描けるを見ば、誰かわが詩歌俗曲の洒脱なる風致に思到らざらんや。われ茉莉まつり素馨そけいの花と而してこの来青花に対すればかならず先考日夜愛読せし所の中華の詩歌楽府がくふ艶史のたぐひを想起せずんばあらざるなり。先考の深く中華の文物を憬慕けいぼせらるゝや、南船北馬その遊跡十八省にあまねくして猶足れりとせず、遥に異郷の花木を携帰たづさへかへりてこれを故園に移し植ゑ、悠々として余生を楽しみたまひき。物一度ひとたび愛すれば正に進んでかくの如くならざる可からず。三昧のきやうに入るといふもの即ちこれなり。われ省みてわが疎懶そらんの性遂にこゝに至ること能はざるを愧づ。


カラタネオガタマ