「九相図」というテーマではこの他にも「檀林皇后九相観」(桂光山西福寺、京都市)や「人道不浄相図」(紫雲山聖衆来迎寺、滋賀県)」など、いくつも知れれている。だからテーマとしては一般的なものだったのであろう。
私はこういうのが好きで機会あるごとに見直すのだが、驚くべきことは、そのリアルさである。おそらく当時は、日常的に人体が腐乱していくさまが街角や川原などで観察できたのであろう。実に正確だ。
死体が黒ずみ腹が膨れ、血がにじみ出る。次に脂肪がどろどろになって流れ出す。しぼんだ死体から肋骨などの骨が外に露出してくる。犬や鳥などが肉を食い散らす。最後は骨だけになる。その骨も辺りに散乱してい原型をとどめなくなるというもの。
仏教の「無常観」をあらわして「仏教画」とされる。しかし、ここまでリアルに表現したのは、その目的をはるかに超える。なんらかの強い意志があったと想像される。それは事実を冷徹に観察して、書き留めておきたいという欲望である。その意志は直接的には仏教とはなんの関係もない。
環境を正確に把握したいという人間としての、さらに言ってしまえば、生物としての本源的な欲求ではないかと思う。江戸の絵師に「若冲」という人がいるが、この人の絵を想起する。同じような強い欲望を感じることができるから。また、写真家の藤原新也が初期のインド紀行で掲載した、ガンジスの中洲で犬が死体を食う場面を写した写真。「メメント・モリ」に収録されたその写真には、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」ということばが添えられていた。
藤原新也の「印度放浪」(朝日文庫)を書庫から引っ張り出してきた。紙の質が悪いので大分日に焼けていて、しかもかさかさと貧相な音がする。ぱらぱらめくってみる。
「人間の身体(からだ)を見ていて神々しいと思ったのは、一っぺん沈んで浮かんできた水葬体だね。水葬にしていったん沈むんだけど、沈んだあと底につかないのはそのまま浮かばないで流れる。底についたのは必ず浮かんでくるんだ。そうやって浮かんできた時の顔とか身体(からだ)というのは、不純なものがいっさい流れたような美しいものなんだね。半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある、それが二三日経つとだんだん膨らんできて、中の血管の血がバーッと表に出て、まるで不動明王や五大明王みたいに赤黒くなる。それからまた血が引いて漂白されたようになって行く。水に投げられたひとつの死体(しかばね)をずーっと見ていると、人間のもっているすべてが見えるよ。日本でも死ぬ時に、これは単なる比喩的な言いまわしだろうけどさ、死ぬときに一回苦しんだか、二回苦しんだか、三回苦しんだかで、その人の生前にもっている業みたいなものが出るということを言うじゃない。それとは違うけど、水葬死体も人間のもっている生前のことを全部見せてくれるような気がするね。」
「小野小町九相図」と同じことが書かれていることに驚く。違いは、水葬体の一瞬の間の美しさを藤原が発見していることと業に言及していること。しかし、人間のもっているものの全てが見えるような気がするという部分は、おそらく「九相図」を描いた絵師も感じたことではなかったか、と想像する。
藤原新也の書いたものをそのときどきに読んできた。初めて読んだのは「東京漂流」(1983)ではなかったか。この書には本当に衝撃を受けた。バット殺人事件現場、新興住宅地の中のその家の写真がその中にあったと思う。非人間化、管理化されていく日本というものを見せ付けられた衝撃だった。
藤原新也の書いたものをそのときどきに読んできた。初めて読んだのは「東京漂流」(1983)ではなかったか。この書には本当に衝撃を受けた。バット殺人事件現場、新興住宅地の中のその家の写真がその中にあったと思う。非人間化、管理化されていく日本というものを見せ付けられた衝撃だった。
その後に「印度放浪」(1972)へと彼の著作を遡ったような気がする。文庫化したときの1984年当時のあとがきで、次のように書いている。
「改めて気づいたことは、この本の率直さが、近代化され、管理化された日本に対するアンチテーゼとしての力を失っていないばかりか、この十年の日本の状況進化に伴って、より一層明確な視点を与えられているということであった。」
さらに四半世紀が経過した現在の日本の状況は、管理化が行き着くところまで来た感じがする。どこの政党が政府を形成しているといったレベルをはるかに超えている。全く別のフェーズに入ったと言えるかもしれない。その意味でも日本文明の将来が決まる重大な岐路が来ているのだろう。
非人間化、非個人化、管理化などと言われる。それを国民が自ら求めているようにすら見える。たとえば老後や医療を国家に託すということはそれを意味するだろう。それを拒否できるか?それとも別の手法があるのか?国家ではなく、社会が担うという考え方がある。「新しい公共」と言う概念・考え方がその一つだとされる。どうなるのだろうか。個人の管理化、非人間化をどう回避していくのか、それがはたしてできるのか?まだよく見えない。
藤原新也を改めて読む意味は大いにあるだろうと思う。